第71話「じぶんを忘れた日」
ときどき、ふっと「ぼくって、だれだろう?」と感じる瞬間があります。 それは決して変なことじゃなくて、自分の中の静かな観察者が目をさますときなのかもしれません。 今回は、そんな不思議で、少しこわいけどやさしい、"じぶん"を見つめるお話です
その朝、タケルは目をさまして、すぐにおかしなことに気がついた。
「……あれ? ぼく……だれだっけ?」
自分の名前が、どうしても思い出せなかった。
ほんの数秒のことだった。 でも、その短いあいだ、タケルの中には“じぶん”がいなかった。 頭の中は、空っぽの部屋みたいにしんとして、少しこわかった。
学校の帰り道、その話をアスにすると、アスはすぐに反応した。
「それ、観測が一瞬止まったんだよ」
「え?」
「“きみ”って感覚は、記憶をつなぎ合わせて生まれるんだ。だから、記憶の糸が一瞬切れたら……“きみ”もいなくなる」
タケルは、どきんとした。
「でも、すぐ戻ったから、ぼくはちゃんと、ぼくなんだよね?」
アスは笑った。
「その“戻った”って感覚も、記憶がそう言ってるだけかも」
アスはタケルをある場所に連れていった。
町はずれの古いお寺。
境内の隅に、小さな石像と木のベンチがあって、そこにおじいさんが静かに座っていた。
「この人ね、ずっと名前を言わないの。自分が誰かも、思い出せないらしい」
タケルはびっくりした。
「でも、ほら、見て」
おじいさんは、風に揺れる木を見て、やさしく笑っていた。
「名前がなくても、記憶がなくても、今ここにいることを感じてる」
タケルはおじいさんの隣に、そっと座った。
何もしゃべらないけど、不思議とさみしくはなかった。
──風が吹く。鳥が鳴く。どこかで鐘の音がする。
「自分って、なんだろうね……」とタケルがつぶやく。
アスは言う。
「“わたし”って言葉が消えたら、世界はどう見えると思う?」
タケルは少し考えて、答えた。
「……でも、自分がいなかったら、ぼくはこの世界を“好き”って思えないかも」
アスは、ゆっくりうなずいた。
「うん。きみが“きみ”って思うこと、それもたぶん、魔法みたいな記憶のつながりなんだよ」
タケルは、そっと胸に手を当てた。 そこに“じぶん”がいるか、確かめるように。
風がまた吹いて、木々の葉がざわめいた。
じぶんって、なんでしょう? 名前? 記憶? 気持ち? それとも、それらを見つめる静かな“何か”?
仏教では「五蘊」──からだ、感覚、認識、思い、意識──が集まっているだけで、ほんとうの“じぶん”なんてどこにもないと言います。
だけどタケルが言ったように、「この世界を好きって思えるじぶん」がいるのなら、きっとそれはとてもたいせつな“今”なのかもしれません。




