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第70話「宇宙のとなりの部屋」

「水」とはなんだろう。 ことばの意味は、頭の中にあるのか。それとも、外の世界にあるのか。


第70話では、哲学者ヒラリー・パトナムの「双子地球」仮説をもとに、「意味とはどこにあるか?」をタケルとアスの視点で探ります。 アスの弟の描写を通して、「ことばの前にある世界」にも、ささやかにふれています。

夕方、寺の裏庭で、タケルとアスは並んで石に腰かけていた。


空にはまだ、夕焼けになりきらない色がひろがっていて、風がすこしだけひんやりしている。


「タケル」 アスが、不意に言った。


「この地球とまったく同じ星が、遠い宇宙にもう一個あったらどうする?」


「ん? またそういう話か」


「双子の地球。まったく同じ人が住んでて、言葉も、建物も、学校もお寺も、きみもぼくも全部そっくり。でも、たとえば――その星の“水”が、じつはH2Oじゃなかったとしたら?」


タケルはすこし考えてから言った。


「それって、なんか……その水、見た目は水なんでしょ?」


「そう。でも化学式にしたらちがう。H2Oじゃなくて、たとえばXYZっていう別の物質。だけどそこの人たちは、それを“水”って呼んでる」


「へんなの。じゃあ“水”っていう言葉の意味って、なんなのさ」


アスは小さく笑った。


「意味は、頭の中だけにあるんじゃなくて……外にあるのかもよ。水って言うとき、ぼくらは“ある物質”とつながってる。それが意味ってやつの、ふしぎなところ」


しばらく沈黙があって、タケルが言った。


「でもさ、ぼく……君の弟見てると、よく思うんだ」


アスが顔を向ける。


「言葉を持たなくても、水を見つめてる。すごく真剣に。それって、意味とか、名前とかよりも前の、なにかじゃないかな」


「そうだね」


アスは静かにうなずいた。


「ぼくの弟は、“水”って言葉、まだうまく使えない。でも、手ですくって、ずっと見てる。ときどき笑うんだ。まるで、宇宙のとなりの部屋にいるみたいに」


「宇宙のとなりの部屋?」


「うん。そこでは、まだ言葉の意味が決まってなくて、でもぜんぶが意味を持ってる。透明で、名前がない世界」


タケルは、ふっと風にゆれる葉の音を聞いた。


そのとき、兄の声がした。


「タケル。こんなとこにいたのか」


「兄ちゃん……」


「何してた?」


「……考えてた。意味って、どこにあるのかなって」


兄はしばらく考えてから言った。


「意味は、“外”と“中”の間にあるんだよ。どちらかだけじゃ、意味は生まれない。仏教では“縁”っていう考え方があってな。関係のなかにこそ、ほんとうのものがある」


アスとタケルは、本堂の横を歩いていく。


静かな石畳のむこうで、小さな背中がしゃがんでいた。


水桶の前で、小さな手が水をすくっている。


タケルは目をこらして、その姿を見つめた。


「水ってさ、やっぱり水なんだな……H2Oじゃなくても」


アスが言った。


「ことばの前に、ちゃんとあるんだね。世界が」


小さな背中が、ふりかえった。


夕焼けのなかで、母親の声がする。


「シン、おいで」


シンは静かに立ち上がる。


その手から、しずくがぽとりと地面に落ちた。

パトナムの「双子地球」の思考実験は、「言葉の意味」が私たちの頭の中ではなく、外の世界との関係で成立しているかもしれないという、意味論的外在主義のアイディアを示すものでした。


言葉を持たない“弟”の存在を通して、その前にある「ことば以前の世界」を描きたくなりました。


ことばが生まれるより前に、すでに何かがそこにある――その感覚は、子どもたちの観察と沈黙の中に、そっとひそんでいるのかもしれません。

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