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第68話「きみの名前が生まれた日」

きみは、じぶんの「なまえ」がよばれたとき、どんな気もちになる?

ちょっとはずかしい? うれしい? それとも、なにげない感じ?


このおはなしに出てくる弟は、あまり言葉を話さない子どもです。

自閉症スペクトラムしょうがいという名前がついているけれど、目に見えない「感じかた」がちょっとちがうだけ。


音や光や水のながれ……ふつうの人には何でもないことが、とても大きな世界として広がっていたりするんだ。


そんな弟が、「はじめて」じぶんのなまえに反応する――

それは、まわりの大人たちにとって、とてもとくべつなできごとです。


このおはなしは、「なまえ」とは何か、「じぶんがいる」ということは何かを、

ふしぎな石とやさしい時間のなかで、そっと見つめてみる物語です。

石段に腰をかけていたタケルとアスは、いつのまにか言葉を止めて、風の音に耳をすませていた。


ふとアスがつぶやいた。


「世界って、外から感じないと入ってこない。でも感じたものが、ほんとうに世界そのものかどうかは、わからない。」


タケルは小さくうなずいた。


「たとえば、ぼくらが見てる“赤い花”が、ほんとうに“赤い”って言えるのかってこと?」


「そう。でも、たとえば“におい”から始まったら、世界はぜんぜん違って見えてたかもしれない。」


「……像の耳に聞こえた最初の音が、世界のはじまりだったんだよね。」


アスは足もとに落ちていた小石を拾った。それは、前に弟がずっと見つめていたような、ただの小さな石だった。


「“石のえほん”、つづきがあったら、こんな話かもしれないね。『名前をおぼえた石』。」


「え?」


「それまで、石は世界を感じていても、それを“言葉”にできなかった。でも、ある日、だれかが名前を呼んでくれた。そうしたら、“これが自分だ”って思えたんだ。」


タケルははっとして立ち上がった。


「弟…!」


二人は静かに石段を降りて、そっと本堂の縁側をのぞいた。


夕方の光が、障子からやわらかく差し込んでいる。

本堂の中で、タケルの母が、アスの弟のとなりに座っていた。


弟は、いつものように水をすくって、手のひらに受けていた。

それをじっと見つめている顔は、いつものようで、でもどこか違って見えた。


タケルとアスが近づくと、弟はふと顔を上げた。

アスの方をまっすぐに見て、目が合った。


タケルが小さくささやいた。


「今……」


そのとき、本堂の戸が静かに開いて、アスの母親が現れた。

少し疲れた顔だったが、弟の姿を見ると、ゆっくりと微笑んだ。


「……シン」


その声に、弟はくるっと振り返った。


ほんの一瞬、ぽかんとした表情。

そして次の瞬間、小さく口が動いた。


「……シン」


まるで、自分の名前が、自分の中から出てきたみたいに。

言葉というより、音に近いその発声だったけれど、間違いなく、世界の中に存在する“ことば”だった。


母親は小さく目を潤ませて、そっとしゃがみこみ、弟を抱きしめた。

弟は笑った。


その笑顔は、まるで、

「ぼくはここにいるよ」と言っているようだった。


アスは黙ってその光景を見つめていた。


タケルがつぶやいた。


「名前って……呼んでもらうためにあるのかな。」


アスは、石をそっとポケットにしまいながら、つぶやいた。


「うん。“世界の外”にいた存在が、“ここにいる”ってはじめて気づくために、ね。」

「名前をもらう」って、どんなことだと思いますか?

このお話では、言葉がまだ上手じゃない弟が、自分の名前に反応することで「自分がここにいる」と気づいていきます。


自閉症スペクトラムの子どもたちは、音や光にとても敏感だったり、逆に言葉で気持ちを伝えるのがむずかしかったりします。でも、名前や触れたものの感覚が、世界とつながる「はじめの扉」になることがあります。


哲学の世界では、「感じること」が“ぼく”という存在のスタートだと考えた人もいます。

だからこのお話では、感覚と名前とつながりをテーマにしました。

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