第67話「ぼくがうまれた日」
「感じること」は、あたりまえのようで、とても不思議なことです。
もし、見ることも聞くこともなかったら、世界はどんなふうにあるのでしょう?
今回は、“感覚”がひとつずつ増えていくことで「自分」が生まれるという、コンディヤックの哲学をもとに、仏教の「縁」の考え方ともつなげてみました。
タケルとアスは、午後のお寺の境内で石の仏像を見ていた。
弟は母と本堂の中にいて、タケルたちは裏庭の苔むした地蔵さまの前にしゃがみこんでいた。
アスが持ってきたのは、ぼろぼろの古い絵本。
表紙には「かんかくを ひとつずつ もらった こぞう」と書かれていた。
「この本、前に図書館で見つけたんだけど……たぶんもう誰も読んでないんだよね」
アスが小さく笑って言った。
タケルは絵本をのぞきこむ。
そこには目も耳もない、つるつるの石の像が描かれていた。
「このこぞうが、“目”をもらって、世界を見はじめるんだって」
アスがページをめくりながら言った。
「見えるようになるって、すごいよね」
タケルがうなずいた。
「でも、それだけじゃ“自分”は生まれないんだ」
アスはそう言って、指でページをトントンと叩いた。
「次に“耳”をもらって、“声”と“音”を聞く。そして、“手”でふれ、“鼻”でにおいをかぎ、“口”であじを知る。――そうしてようやく、“ぼく”っていう感覚が生まれるんだって」
「それって……“感覚”がたくさん集まって、“ぼく”ができるってこと?」
「うん。“感じた記憶”が、ぼくってやつを形にするんだよ。ひとつずつ増えていくたびに、“世界”が広がって、“自分”も育っていく。ほら、まるでレゴブロックを積み上げるみたいに」
タケルは少し黙って、地蔵の顔を見つめた。苔におおわれていて、表情ははっきりしない。
「じゃあさ。もしその感覚が全部なくなったら、“ぼく”も消えちゃうの?」
アスはふと空を見上げた。
「たしかに、すべての感覚がなくなれば、“ぼく”っていう形は壊れるかも。でも、それでも――記憶のかけらが、どこかに漂っていたら」
「うん」
「また、感覚を通して、“ぼく”は生まれるかもしれない。“縁”っていうやつさ」
タケルはハッとしたように言った。
「それ、兄ちゃんが言ってた。“すべては縁で生まれる。なにかとつながって初めて存在になる”って」
「うん。だから、“自分”って、じつは“ひとりぼっち”じゃないんだよ」
ふたりの間に、静かな風が流れる。
タケルはぽつりと言った。
「じゃあ、今ここでこうしてる“ぼく”も、“誰か”に感じてもらったり、話しかけてもらったりして、生まれてるのかな?」
アスは笑った。
「もちろん。“きみ”がいるから、今の“ぼく”も生まれてるんだよ」
地蔵さまの苔が、夕日を浴びてやさしく輝いていた。
ふたりはその前で静かに並んでしゃがみ、長い時間、なにも言わずにすわっていた。
「ぼく」は、はじめからあるものではなく、いろんな“つながり”の中で生まれてくるのかもしれません。
この世界の中で、誰かと出会い、ふれあい、感じる――それが、命が生きているということの証なのだと思います。
次回も、タケルとアスが「存在」や「命」について、ふしぎな旅を続けていきます。




