第66話「にんげんって、なにでできてる?」
夜、お寺で語られる会話。
この話は、前回のチューリングテストの思考実験から続いて、「人間とは?」「科学と仏教の違いって?」という哲学的な問いに発展していきます。
タケルの“まっすぐな疑問”、アスの“哲学的視点”、そして兄ちゃんの“仏教の知恵”が重なって、深い気づきが生まれる回です。
夜、タケルの家の仏間。ちゃぶ台の上には、タケルのお母さんが用意したお茶とみかん。
「アスくんのお家には電話しておいたからね。ゆっくりしてってね」と、お母さんがにっこり笑って奥へ消える。
アスはみかんの皮をきれいにむきながら言った。
「さっきの話、ちょっと考えてた。チューリングテストって、すごく面白いけど……でも、ぼくら人間は、“人間らしさ”を何で判断してるんだろうね」
「“らしさ”?」とタケル。
「そう。もし人工知能が完璧に人間をまねできたら、それってもう人間と変わらないのかな、って」
タケルはしばらく考えたあと、ぼそっと言った。
「でも……アスが機械だったら、ちょっとイヤかも」
アスはふっと笑った。
「ぼくもタケルが機械だったらイヤだな。たぶん“なんとなく”だけどね」
ふたりはそのまま、廊下を歩いて仏間の方へ行った。部屋の空気は冷たく、でも静かで落ち着いていた。
「兄ちゃんって、こういうとき、何て言うんだろ……」とタケルがつぶやく。
すると、ふすまが音もなく開いて、兄ちゃんが立っていた。
「言うとしたら、仏教と科学の違いの話かな」
「兄ちゃん……起きてたの?」
「まあね」と兄ちゃんは笑って入ってきた。
兄ちゃんは、ふたりの前に座って、ぽつりと語りはじめた。
「科学は、“なにがどうしてそうなるか”を探す。原因と結果の世界。でも仏教は、“どう受けとって、どう生きるか”を問うんだよ」
「……それって、方向がちがうってこと?」アスが聞いた。
「そう。たとえば、心が脳の働きだって科学は言う。でも仏教では、心が世界を生み出してるとも考える。見方を変えると、世界の意味も変わるってことさ」
タケルは黙って聞いていたけど、ふと聞いた。
「じゃあ、“ほんとうのぼく”って、どこにあるの?」
兄ちゃんはしばらく黙ってから、そっと言った。
「探せば探すほど見つからない。だけど、“誰かとつながるとき”、そこに“ぼく”が見える気がする。そんなものかもしれないよ」
アスは、畳の目をじっと見つめながら言った。
「それは“縁起”の考え方に近いね。存在って、つながりでできてるってことだ」
「そうそう」と兄ちゃんは笑った。「仏教じゃ、それを“縁”って言う」
しんとした時間が流れる。
三人はそろって本堂へ向かう。薄暗い灯の中、曼荼羅の中に並ぶ仏の姿が、柔らかく浮かんでいた。
誰も言葉を発しないまま、そのひとつひとつを見つめた。
まるで、言葉になる前の、静かな問いと答えがそこにあるように。
科学は物事のしくみを解き明かそうとしますが、仏教は生き方の「問い」に向かいます。
どちらも大切。でも、“自分がなにを信じて、どう生きるか”は、自分で選ぶしかない。
曼荼羅の仏たちは、その選び方を問いかけているのかもしれません。




