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第63話「けしたことは、どこへいく?」

「消したこと」は、本当に“なかったこと”になるのでしょうか?

このお話は、仏教で語られる“アラヤ識”や“因果”の考え方にヒントを得ています。

目に見える世界の裏にある、“消せないもの”について考えるお話です。

夕方、タケルは自分の部屋で日記を見つめていた。

夏休みの絵日記。うまく描けたつもりだったが、途中でなんだか恥ずかしくなって、消しゴムでぐしゃぐしゃに消してしまった。


「なんか、もう全部なかったことにしたいなあ……」


そのとき、階段をどたどたと上がってくる足音。アスだった。

どうしてタイミングよく来るのか、もう不思議にも思わない。


「……やっぱり来たか」

「うん、なんか来なきゃって思ってさ」


アスはタケルの机の上に置かれた、消しゴムのかすを指でつまんだ。


「これ、けしたんだ」

「うん。なんか、失敗した気がして」


アスはちょっと考えるような顔をしたあと、言った。


「タケル。きみ、“消す”って、どういうことだと思う?」


「文字を消すこと?」


「ううん。“なかったことにする”って思ってるでしょ」


「……うん。間違ったとこ消したら、きれいになるし」


アスは首をかしげた。


「でも、それってほんとうに“なかったこと”になるのかな。ぼくは、消したものって、どこかに残ってると思う」


「え? でも見えないよ?」


アスは机のふちを指でなぞりながら、つぶやいた。


「仏教ではね、“心”にうつったことは、たとえ消しても、種みたいに残るって言うんだよ。アラヤ識っていう、深い心のひきだしに」


タケルは目をまるくした。


「……ひきだし?」


「そう。ぼくらが“もう忘れた”とか“消した”って思ってることでも、そのひきだしにはちゃんと入ってる。だから、夢に出てきたり、ふとしたときに思い出したりする」


タケルは消しかすをそっと拾い上げた。


「じゃあ、ぼくがさっき“恥ずかしい”って思って消した絵も……」


「どこかにいるよ。たぶん、君の心の深いところで。見えなくても」


アスは微笑んだ。


「消すってことは、見えなくするだけ。でも、それを“なかったこと”にするには、人間は、きっとなれない」


「……なんかこわいな、それ」


「でもね、逆に言えば……悲しかったことも、うれしかったことも、忘れたくないことも、全部そこに残ってる。消えないってことは、“ほんとうにあった”ってことだから」


そのとき、タケルの机の上に置かれていたノートのページが、風もないのにふわりとめくれた。

さっき消したはずの絵が、うっすらと紙の裏側から浮かび上がっていた。


「……え?」


アスは静かに言った。


「消しゴムで消せるのは、表面だけ。ほんとうのことは、たぶん消せない。心のなかにちゃんと残るようになってる」


タケルはその絵を、もう一度ていねいに描き直しはじめた。

今度は、消さないつもりで。

「記憶」や「後悔」、そして「優しさ」や「痛み」。

それらは、消しゴムでは消せません。

でも、消せないからこそ、わたしたちはそれを見つめ直し、やさしくなることができます。

消しゴムで消えた文字のむこうには、ほんとうの“あなた”がいます。

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