第9話「いちばん小さなぼく」
「じぶん」って、どこからどこまで?
名前? 顔? 思い出? それとももっと小さな何か?
分けてみると、なんだかよくわからなくなる「自分」というふしぎな存在。
この物語では、アスとタケルがその“いちばん小さなぼく”をめぐって、静かな観察をはじめます。
前作(第8話)や第7話ともつながる、小さくて深い、おしゃべりと気づきの時間です。
お寺の境内に、ひんやりした風が通る午後。
セミの声がだんだんと遠のいて、夏の終わりが近いことを知らせていた。
タケルとアスは、本堂の縁側で麦茶を飲んでいた。
前にやった「空っぽの箱の自由研究」は、タケルの提出も終わって、一段落していた。
「このまま夏が終わるの、ちょっとさみしいな」
タケルが言うと、アスは足の指で蚊をはらいながらつぶやいた。
「きみって、どこまでが“きみ”だと思う?」
「……え?」
「たとえばさ、髪の毛って“きみ”の一部? 切っても“きみ”?」
「うーん……切ったら、もうぼくじゃない?」
「じゃあ、細胞は? 一個ずつ。ぜんぶばらばらにしても、それって“きみ”?
どこまでいったら、“きみ”じゃなくなる?」
タケルはしばらく黙っていた。
「……また、むずかしいこと言いだしたな」
アスは麦茶を一口すすって、にやりと笑った。
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その日、ふたりは物置き部屋で「実験」をすることにした。
といっても、ふしぎな実験だ。
アスが持ってきたのは、小さな鏡と紙とセロテープ。
「これで“ぼく”を分けていく」
まずは、鏡に映る自分の顔を見て、紙で顔の一部を隠していく。
「これは“目”だけのぼく」
「これは“口”だけのぼく」
「これは“鼻”だけのぼく」
鏡の中のタケルは、どんどんバラバラになっていく。
「これで“自分”って思える?」
タケルは首をかしげた。
「顔の一部だけ見ても……なんだか、自分じゃないみたいだな」
「そう。じゃあ顔じゃない? じゃあ記憶?」
アスは、自分の昔の写真を一枚出した。保育園のときのものだった。
「これは“ぼく”だけど、今のぼくとは全然ちがう。じゃあ、どっちが“ほんとうのぼく”?」
タケルは、写真とアスを交互に見た。
「どっちもアス、って感じするけど……でも、同じじゃないね」
アスはうなずいた。
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ふたりは縁側に戻って、ぼーっと空を見上げた。
雲がちぎれて、細くなって、すぐ形を変えていく。
「人って雲みたいだよね」
アスがぽつんと言った。
「形は変わるし、さわれないし、どこまでが“自分”かわからない。
でも、ちゃんと“そこにある”って、感じる」
タケルは、ふと思い出した。
——アスの弟のこと。
第7話のあの日。弟は静かに、何も言わずに部屋の壁に耳を当てていた。
誰にも伝えようとせず、ただ“何か”とつながっていたようだった。
「……弟って、“自分”がどこにあるか、わかってるのかな」
アスはすこし考えてから言った。
「たぶん、“わかってない”ことが、正解かもしれない。
世界と自分のあいだに、線をひいてないから」
「線をひいてない?」
「“ここまでがぼく”って思うと、ほかのものが“自分じゃない”ってなるでしょ?
でも、もしかしたら、ぼくらはぜんぶ、つながってるのかもしれない。
細胞のひとつ、空気の分子、音の振動、だれかの記憶……」
タケルは、ふと手を見つめた。
自分の手。でも、その中には、目には見えない“誰か”の記憶や空気や時間が混ざっているかもしれない。
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その夜
タケルは「うちゅうかんさつノート」にこう書いた。
自分って、どこまでが「じぶん」なんだろう。 鏡に映った自分は、たしかに「ぼく」だけど、顔の一部だけになると、よくわからなくなる。 名前があって、思い出があって、それで「じぶん」って言ってるけど、それもいつか変わっていく。 じゃあ、いちばん小さな「ぼく」ってなんだろう。 さわれないし、見えないかもしれないけど、たしかに“ここにいる”って感じがする。 もしかしたら、それだけでじゅうぶんなのかもしれない。
自分とはなにか。どこまでが自分で、どこからが世界なのか。
この問いは、子どもにとっても、大人にとっても、終わりのない冒険のようなものです。
アスの弟のように、「わからないまま感じている」ことが、むしろ一番大切なかたちなのかもしれません。
“自分”というものが、切り分けられない何かとして「感じられる」としたら——
それはもう、じゅうぶん“じぶん”として、生きている証しなのだと思います。