第61話「だれかが見てるから
このお話は、「観測されることで存在が決まる」という量子力学の考えと、仏教の「縁起」(他との関係性の中でしか存在しない)という思想をもとにしています。
タケルとアスの会話を通して、「自分がいる」とは何か?「見られていること」がどれだけ深い意味を持つのかを考えさせる物語です。
風が吹いていた。学校の帰り道、タケルはお寺の石段に腰をおろして、うすく曇った空を見上げていた。
ふいに背後から足音がした。
「ぼくのこと、見えてる?」
ふりかえると、アスがいた。
冗談みたいな顔で、でも少しだけ本気の目をしていた。
「なにそれ。見えてるに決まってるじゃん」
「じゃあ、見えなかったら、ぼくはこの前みたいに存在しない?」
タケルは少し考え、この前消えたアスのことを思い出しながら、ちいさな声で
「また…変なこといわないでよ」
とつぶやく。そんなタケルを見てアスはふっと笑いながら
「でも、これは真面目な話だよ」
とつづけた。アスは、お寺の縁側に腰かけて、タケルの方を見ずに空を指さした。
「月は、だれも見てなくても、空にあるって思う?」
「あるでしょ、見てなくても」
「でも、ほんとうに?」
アスは草むらに落ちていた小石を手に取り、それを指で軽く弾いた。
「量子力学だとね、粒みたいなものは、観測されるまでは“あるともないともいえない”状態なんだって。
たとえば電子とか、光とか。見られると、ようやくそこに“ある”って確定される」
「……でも、それって、ただの理科の話じゃん」
「そうかな? もしかしたら、ぼくらの存在も同じかもしれないよ」
アスの声が、ふっと低くなった。
「この前……消えかけたとき、思ったんだ。ぼくは誰にも見られなかったら、本当に消えるんじゃないかって」
タケルの心が少しだけ揺れた。
「でも、ぼくは見てたよ。ちゃんと……アスがいなくなったらって、こわかった」
「だから戻ってこれたのかもしれない。タケルが“ぼくを見ていた”から」
しばらくふたりは黙っていた。境内の木々がざわざわと鳴っている。
「ねえ、タケル」
「なに?」
「自分が“ここにいる”って、どうしてわかる?」
「……うーん、息してるし、しゃべってるし……」
「でももし、ぜんぶ夢だったら?」
「また、それ?」
「ううん、でもね、誰かが見ていてくれることって、本当にすごいことだと思うんだ。存在の証明って、ひとりじゃできない」
タケルはふと、ばあちゃんの言ってた言葉を思い出した。
“人は、人の中に生きるんだよ”
「……じゃあさ、アスがちゃんとここにいるって、ぼくが証明するよ。これからずっと」
アスはそれを聞いて、小さく笑った。
「そっか。じゃあ、ぼくもタケルの観測者だね。お互いに、消えないように」
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その夜、タケルの家で夕ごはんを食べながら、タケルのお母さんは電話をしていた。
「はい、はい、アスくんのお母さんですね。今晩はうちに泊まるって……はい、大丈夫です。いま、カレー食べてます」
アスは笑った。
「観測、されちゃったね」
「なに言ってんだか」
その言葉に、二人とも笑った。
でもタケルは心の奥で、少しだけ思っていた。
アスはたしかに存在している。
でも——
“だれも見なくなったとき、ぼくは?”
その問いは、まだ答えのないままだった。
量子力学の世界では、観測されるまで粒子の状態は“未定”だと言われます。
それはまるで、誰かが見てくれるまで「ぼく」が“確定”されないような、不思議な感覚です。
人とのつながり、人のまなざしが、わたしたちの「存在そのもの」に関わっているのかもしれません。
アスとタケルが、おたがいの“観測者”として存在を支え合う関係に、少しでも感じるものがあれば嬉しいです。




