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第53話「死のあとの記憶」

「死んだあと、人はどこへ行くの?」

子どものころ、そんな問いを考えたことがある人は多いかもしれません。でも、「どこかへ行く」という言い方そのものが、ほんとうは少しだけ不思議なのかもしれません。

このお話では、亡くなったあとに"のこる"何か――それは記憶か、色か、思いか、あるいはまだ名前のない何か――をめぐって、タケルとアスが、ふだんは静かでまじめなおじいちゃんの知らなかった姿にふれます。


夜の庭で語られるのは、誰かの生きた証か、それとも――。

絵と声と死後の記憶についての、静かな一夜の物語です。


秋の午後、タケルとアスはお寺の仏間で、和紙に包まれた一冊の画集を風呂敷にくるんでいた。


「これ、本当にヒルマ・アフ・クリント?」  アスがそっとページをめくる。円と線、色の響きが、まるで言葉の代わりに語りかけてくるようだった。


「うん。檀家の佐々木さんって人がね、ヒルマの展覧会の主催者で。じいちゃんに画集と本と手紙を預けてったんだ。『タケルくん、これ届けてくれるかな』って。」


「……展覧会って、あの“死んでから20年は公開しないでください”って遺言つきの?」 「そう。それだけ、ヒルマは“死んだあと”の世界を信じてたんだって。」


 アスはぽつりとつぶやいた。 「人は死んで終わりじゃない。終わりのあとに、絵が目を覚ます。」


 そのあと、佐々木さんに画集を届けに行った帰りが思ったより遅くなって、タケルとアスはそのままお寺のじいちゃん家に泊まることになった。


 じいちゃんは、自宅の電話からアスの家とタケルの家に「今日は泊まってもらうよ」と連絡してくれた。


 夜。ふたりはふすま越しに、外からかすかな声を聞いた。


 そっと縁側の障子を開けると、庭の奥に、じいちゃんが立っていた。  寝間着のまま、薄暗い月あかりの中で、誰かに話しかけている。笑ったり、黙ったり、まるでそこに本当に誰かがいるようだった。


 いつもきっちりしていて、朝からお経と掃除を欠かさないじいちゃんが、いまはただの、少し背中の丸いおじいさんに見えた。


「見ない方がいいかも」  後ろから声がした。  ふり返ると、じいちゃんの家に修行で住んでいる、タケルの兄だった。


「じいちゃん、たまに夢遊病みたいになるんだ。昔の人と話してる。……結婚する前に亡くなった、恋人の話、聞いたことある?」


 ふたりは首をふった。


「毎年、その人の命日が近くなると、夜中に庭に出て、ひとりで話してるんだってさ。次の日は、何も覚えてない。」


「……生きてる人と死んだ人が話すって、ほんとにあるんだね」  タケルが言うと、アスがうなずいた。


「記憶って、残るんだよ。死んだ人のぶんまで。絵みたいに。夢みたいに。」


 兄は、まだ庭に立つじいちゃんの肩にそっと手を置いた。  じいちゃんは、ゆっくりと振り向いた。その目に、やさしい光があった。


「……もう中に入ろうか」


 そう言って、兄はじいちゃんを連れて家に戻っていった。


 そのあと、アスとタケルも部屋に戻って、布団に入った。  夜が、しんと静かにふたりを包んでいた。


「アス」 「うん?」 「ヒルマの絵って、どこに続いてると思う?」


 アスはふと、天井の暗がりを見つめてから、笑った。 「この世界の、ちょっと外側。声の届かない場所。でも、絵だけは届く。」


 その夜、タケルは、不思議な夢を見た。色も形も、ぜんぶヒルマの絵に出てくるものだった。でも、なぜかあたたかくて、どこか懐かしかった。

この話の中で登場する画家、ヒルマ・アフ・クリントは、実在の人物です。彼女は生前、目に見える世界の奥にある「もっと深い何か」を描こうとし、未来の人々に自分の絵を託しました。


アスが語ったように、彼女は「死んだあと、20年たつまで誰にも見せないで」と遺言を残した画家です。それがいま、タケルとアスの目の前に現れたとき――そこに“ほんとうに見せたかった誰か”がいたのかもしれません。


タケルのおじいちゃんが誰かと話していたのは、夢だったのか、記憶だったのか、それとも…。


"いなくなったあと"も、その人がまだすぐそばにいるような感覚。

それを「死のあとの記憶」と呼ぶなら――ぼくらのなかにも、きっとたくさん、眠っているのかもしれません。


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