第52話「ゆらぐせかい」
ひとりの子が、クラスから消えた。
誰も気にしない。最初から、いなかったかのように。
でも、ほんとうに「いなかった」のか?
タケルとアスと弟だけが、風にゆれるカーテンの奥で、
もうひとつの世界の“名残”を感じ取る――。
【1】ユウマくん
ユウマくんは、タケルのクラスの子。
ふだんは教室にいるけど、週に何度か、別の教室(支援学級)にも行っている。
数字や記号にくわしくて、あるとき黒板のすみにチョークで
「ぼくがいないときも、ぼくはいたらどうなる?」
と書いて先生に怒られていた。
アスはその言葉にピクリと反応した。
「……なるほど、存在しない存在、か。ぼくと話が合いそうだな」
タケル「誰が?」
アス「ユウマくんだよ。あの子は、きっと“ズレてる”」
タケル「何が?」
アス「ぼくらの“世界”と、ちょっとだけ」
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【2】弟の視線と夢のカード
その晩、アスの弟がタケルの家の縁側にいた。
カーテンがゆれているのを、ずっと見つめている。
「あー……」と、風の音をなぞるように声を出す。
ふと立ち上がり、そっとカーテンの裏をのぞく。
だれもいない。
でも弟は、小さく指でカーテンのゆれの「まんなか」を押さえていた。
その夜。
タケルは夢を見た。
弟が床に文字カードを並べている。
「く」「う」「か」「ん」
「ゼ」「ロ」「そ」「ら」
弟はそれを崩して、また並べていた。
何かに近づこうとするように。
音ではなく、かたちで、ことばの手ざわりで。
ときどき、弟はつぶやいた。
「……しろ、しろ……ゼロ、ゼロ……あー……」
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【3】アスとユウマの放課後
翌日。
ユウマくんが、誰もいない図書室の窓辺で本を読んでいた。
アスがその隣にすっと座る。
アス「きみ、気づいてるんだね」
ユウマ「……なにを?」
アス「たまに、“ここ”じゃない世界に来てるってこと」
ユウマ「うん。ときどき、教室に入ると、みんなの目がちょっと違う。
でも、だれも気づかない。ぼくが消えても、きっと気づかない」
アス「それ、“量子ゆらぎ”の話に似てる。観測されなければ、存在は決まらない。
でもきみは、自分を“観測する人”がいないと、消えそうになるんだね」
ユウマ「うん。でも、弟くんはちがう。あの子は、観測されなくても、ずっと“そこ”にいる」
アス「……あの子は、“前の世界”から来てる気がするよ」
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【4】誰も知らない日
その次の日、ユウマくんは学校にいなかった。
先生も何も言わなかった。
クラスメイトも誰一人、ユウマくんのことを話題に出さなかった。
タケルは教室の後ろの棚を見た。
そこに、ユウマくんの上ばき袋が、なぜか最初からなかったように、無い。
アスだけがつぶやいた。
「……この世界に、最初からいなかったみたいだね。
でも、ぼくは前の世界を覚えてる。君もでしょ?」
タケルはうなずいた。
弟が見つめていた、ゆれるカーテン。
夢の中のカード。
そこにあったのは、きっと“ゆらいだ世界”の名残だった。
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エンディングナレーション(タケル)
「もし、死ななかった自分が、どこかで生きていたら。
もし、消えたはずの人が、べつの世界にいるなら。
ぼくらの世界って、ほんとうに一つだけなんだろうか?」
「風でゆれるカーテンみたいに、
現実の“まんなか”が、見えなくなってくる」
「量子自殺」とは、死ぬはずだった自分が、「死ななかった世界」でだけ意識を持ち続けるという、SF的な量子力学の解釈です。
でも、それは私たちが“観測者”であるからこそ成り立つ話。
観測できない存在。言葉にならない存在。
アスの弟のように、ことばよりも先に世界を感じている人が、もしかすると――
世界の“ほんとうの姿”に、一番近いのかもしれません。




