第51話「しゃべらない蜂」
この世界には、たくさんの「音」があります。
笑い声、叫び声、ささやき声――
でもときどき、音を出さないことで、
だれよりも強く、自分を語っている人がいる。
この物語は、そんなひとりの小さな「蜂」の話です。
しゃべらないけれど、しずかに羽をふるわせている、
たしかな存在の物語。
【1】教室という巣の中で
クラスには一人、だれとも話さない女子生徒がいた。
授業で当てられると、顔を赤くして、なにも言えなくなる。
まるで、声そのものがどこか遠くへ行ってしまったように。
その沈黙に、先生も少しだけ眉をひそめる。
そしてクラスの羽音――小さなおしゃべりや、まなざしや、ひそひそ声が、彼女を遠くへ運んでいく。
「暗いよね、あの子」
「しゃべらないのって、なんかこわい」
そんな言葉が、日常の羽音にまぎれていた。
でも、彼女は毎日、ちゃんと学校に来ていた。
教室のいちばんうしろの席にすわり、ノートを開き、チャイムが鳴るまで、そこにいた。
まるで、何かを守っているみたいに。
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【2】アスの言葉
「鳴かない蜂は、にせものかな?」
そう言ったのは、アスだった。
中休みのあと、廊下のすみっこで水筒のお茶を飲んでいた時、ぼくが何気なく「なんであの子、いつも一人なんだろ」って言ったら、そんなふうに返ってきた。
「……いや、にせものじゃないでしょ」
「じゃあ、ただのべつの種類の蜂かもね」
「教室って、一種類の羽音しかゆるされないみたいで、へんだよね」
アスの言葉に、ぼくはなんて返したらいいのかわからなかった。
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【3】図書室での出会い
昼休み、図書室で本を探していたら、思いがけずその女子生徒と目が合った。
彼女は一冊の本を、まるで宝物のように両手で持っていた。
『マハトマ・ガンディー しずかなちからのひと』
彼女は、表紙を見せるとすぐに視線をそらした。
声は出さなかったけれど、「これです」と言っているように見えた。
ぼくは、なんとなく隣にすわった。
絵本の中のガンディーは、棒きれを持って歩いていた。
殴るためじゃない。ただ、歩くために。
だれにも仕返しせず、でも、言うべきことは黙らなかった。
そのページに、こんな言葉があった。
「ほんとうの強さは、しずかに立っていることだ」
ふと、ぼくは思った。
もしかしてこの女子生徒、しゃべらないんじゃなくて――しずかに立っているんじゃないかって。
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【4】アスとの帰り道
下校のとちゅう、アスに図書室でのことを話した。
アスは水たまりの縁を歩きながら、にやっと笑った。
「やっぱり、鳴かない蜂は、なにか持ってると思った」
「しずかにしてるだけの人って、なんか、“言葉になる前の世界”にちょっとだけ近い気がするんだよね」
「言葉になる前?」
「うん。羽音とか、ルールとか、そういうのより前の世界。
ぼくはそこにいる人、けっこう好き」
アスは、そう言って、かかとの泥をぴょんと跳ねた。
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【5】手のひらの言葉
数日後。
先生が黒板に漢字を書いているあいだ、ぼくの視線は自然に、教室のうしろの女子生徒へ向いた。
ふと気づくと、彼女は左手のひらをそっと開き、右手のペンで何かを小さく書いていた。
目をこらすと、そこには――
> 「世界に変化を望むなら、自分がその変化になれ」
――M. Gandhi
それを書き終えると、彼女はその手のひらを、ぎゅっと握りしめた。
まるで、大切なものをだれにも見せずに、胸にしまうみたいに。
ぼくは、その姿を見て、思った。
あの静けさは、「何もない」んじゃない。
きっと彼女は、だれよりも強く、自分の中に火を持ってる。
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【6】小さな羽音の変化
次の日。
ぼくは、朝の教室で、女子生徒に向かって軽くうなずいてみた。
返事はなかったけど、彼女はほんのすこしだけ目を見開いた。
そして、いつもより一秒だけ長く、ぼくを見た。
そのとき、教室の羽音が、ほんのすこしだけ変わった気がした。
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エンディングナレーション(タケル)
> 「ぼくらの教室は、いろんな羽音でできてる」
「ぜんぶ同じに聞こえる日もあるけど、ときどき、ちがう音に気づける日がある」
「ぼくも、まだまだ小さな蜂だけど――ちがう羽音に気づける蜂でいたい」
「しずかであること」は、「なにもないこと」じゃない。
ただ、目に見えにくいだけ。
ただ、声に聞こえにくいだけ。
だけどそのしずけさの中には、
怒りよりも深い意志や、
さけびよりも強い勇気が
ひっそりと息をしているのかもしれません。
世界に変化を望むなら、
私たちはまず、その変化に――
“なる”ことから、はじめてみようと思います。




