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第50話「メアリーの部屋と色の見え方」

「わたしたち、同じものを見てるのかな?」


りんごの「赤」や、空の「青」。

あたりまえに見えている“色”が、じつは他の人には、ちがって見えているかもしれない。

そのことに気づいたとき、世界はふしぎな静けさをもって、こちらを見つめ返してきます。


弟の描いた「青い夕焼け」が、教えてくれたのは、

“色”とは、知識や正しさでなく、感じている世界そのものだということ。

そして、他人の世界にそっと近づくことは、

とても繊細で、あたたかい行為なのかもしれません。

弟がはじめて、タケルの部屋に入ったのは数週間前だった。


ドアの縁を何度も指でなぞり、ゆっくりと開けたり閉めたり。

その小さな動きを何度も繰り返して、ようやく中に入った弟は、

まるで見知らぬ星に降り立った宇宙飛行士のように、静かにあたりを見渡していた。


今日も、弟はそこで絵を描いている。

床に広げた紙に、無言でクレヨンを走らせる。

赤いクレヨンだけ、毎回すこし横に置かれたままだ。


「ねえアス。りんごって何色?」


「んー、タケルが見てるのは赤でしょ。でも、ぼくが見てるそれと、ほんとに同じかな?」


アスは言いながら、弟の絵をのぞき込んだ。

そこには青いりんごと、黄色の夕焼けが描かれていた。


「弟には、赤が見えてないってこと?」


「かもしれない。でも弟はそれを“見えてない”とは思ってない。

 彼にとっては、最初から、世界に“赤”がないんだよ。」


「……うーん、へんな気持ち。」


「メアリーの部屋、知ってる?」


「だれ、それ?」


「科学者メアリーはね、白黒しか見えない部屋で生まれて、

 すべての色について知識としては学んだのに、

 ある日、外に出てほんものの赤を見たとき、こう言ったんだ。

 『これは知らなかった』って。」


タケルは弟を見た。弟は青い夕焼けを描き終えると、

クレヨンの紙ラベルを指でなぞって、うれしそうに笑った。


「じゃあさ、赤を知らない人に、赤って説明できるの?」


「できないよ。“赤い”ってことを説明するためには、

 相手が“赤”を知ってるって前提がいるからね。

 **感じクオリア**は、言葉にならないものなんだ。」


「でも弟は、たのしそうに描いてるよ。

 ぼくたちの“正しい色”を知らなくても。」


「そう。世界はきみの“赤”でできてない。

 それぞれの世界が、それぞれの“色”を持ってるんだよ。」


タケルは弟のクレヨンの箱を見つめながら、ふと思った。

「…じゃあ、“本当の色”って、ないの?」


アスはぽつんと答えた。


「仏教では、“色即是空しきそくぜくう”って言うんだ。

 かたちは、ほんとうには存在してない。

 ただ、そう感じてるってだけなんだよ。」


タケルは静かにうなずいた。

弟の描いた青い夕焼けを見ながら、ふしぎと心が落ちついた。


「たしかに。

 これは“まちがった色”じゃなくて、

 弟の世界にしかない、

 ほんとうの色なんだ。」


弟は、赤いクレヨンの紙の端を、そっと指でなぞっていた。

それはまだ、自分の色ではない“色”を、

ちいさな手で、そっとたしかめるような動きだった。

「本当の色って、あるのかな?」


このお話に登場する「メアリーの部屋」は、

科学哲学のなかでもとくに有名な思考実験です。

すべての知識を手に入れても、“感じる”ということの本質には届かない、という問い。


赤を知らない人に、赤を説明できるか?

弟が見ている世界は、“まちがっている”のではなく、**その子だけの“ほんとう”**かもしれない。


そして仏教では、それを「色即是空しきそくぜくう」といいます。

形や色もまた、うつろい、つかめないもの。

だからこそ、一瞬のクレヨンの色に、その子の宇宙が宿っている。


正しさよりも、感じることを信じる世界へ。

そんな一歩を踏み出すための、青い夕焼けでした。


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