第48話 「こころと、のうの せん」
「こころ」って、どこにあるんだろう?
胸のあたり?それとも、あたま?
でも――「脳」がなければ「こころ」もないの?
もしそうなら、ぼくらの“気持ち”は、ただの電気信号?
じゃあ、あの笑顔は――なにを感じていたんだろう。
タケルの部屋のドアが、カチャ……パタン……と、ゆっくり開いたり閉じたりしていた。
弟が、ドアの縁を小さな指でなぞるように触りながら、何度もドアを動かしている。
その顔はとても楽しそうで、にこにこと、まるでなにか見えないものを見つめているようだった。
タケルは、ちゃぶ台の上でノートにペンを走らせていた手をとめて、その様子を見つめる。
「……ねえアス、弟、最近ほんとに家になじんできたね。あんなふうに、ドアをずっとさわって笑ったりしてさ」
「うん。ああいう笑った顔、なんかいいね」
アスはちゃぶ台に顎をのせて、まっすぐ弟を見つめた。
「前もサイコロの目をさわってたよね。目で見てるんじゃなくて、“さわって感じてる”んだと思う」
「“こころ”で感じてる、ってこと?」
アスはちょっとだけ考えるふうをして、すぐに首をかしげた。
「でもさ、“こころ”って……どこにあると思う?」
「うーん……胸? いや、やっぱ“脳”じゃない?」
「“脳”が“こころ”をつくってるなら、あの弟の気持ちも、ぜんぶ電気と化学の信号ってことになるよね?」
「……うわ、なんか冷たいな……」
タケルはちょっと困った顔をして、また弟を見た。
弟はまだ、言葉を使って気持ちを伝えることはむずかしい。だけど、今この瞬間、たしかに「なにか」を感じている。
それは、タケルにも伝わってくるのだ。
「アス、それってさ……」
タケルは思わず、ふすまの方を見ながら言った。
「“こころ”がさきで、“脳”があと、ってことはないのかな?」
「どういうこと?」
「たとえばさ。弟がドアの縁をさわってるとき、きっと“気持ち”が先にあって、そのあとで脳が『あ、気持ち感じた!』ってあとから線をつないでるような」
「……“心の線”と“脳の線”か……」
アスはつぶやくように言って、すぐにニヤッと笑った。
「それ、エピクテトスが、似たようなこと言ってたかも」
「またエピクテなんとかの話?てか…そういう名前毎回出してくる~。アスってほんとどこで覚えたの?」
「まあまあ」
アスはサイコロをくるくるまわしながら言った。
「“人は物ごとに動かされるんじゃなくて、それに対する“見かた”で動く”――ってね。
つまり、“感じること”が先なんだよ。世界は“心”のうつしかたで変わる。
それって、タケルの“心の線が先”って話と、近いかもしれない」
タケルは目をまるくしてから、笑った。
「でもさ、弟は言葉ぜんぜん使わないのに……すごいよね」
「うん。“言葉がない”ってことは、“意味の前”の世界にいるのかも」
「じゃあ、そこって……“ほんとうの感じる世界”なのかもね」
そのとき、弟がまたドアの縁をなぞりながら、くすくす笑った。
その笑い声が、タケルの心にまっすぐに届いた。
言葉じゃないけど、たしかに伝わってきた。
“こころ”は、ほんとうに、ここにあるんだ。
「こころ」があるのは、どこ?
「脳」が動くから、「こころ」がある?
でも、まだ言葉もつかえない弟の笑顔に、ぼくは“なにか”を感じた。
それはたぶん、「こころ」が“先”にあるってこと。
きっと、“こころ”って、世界にふれる最初の線なんだ。




