第316話『生きるってなに?』
生きていると、理由がわからなくなる瞬間がある。
悲しいわけでも、つらいわけでもないのに、
ただ空っぽに感じてしまうとき。
それは、答えを探し始めた心の合図なのかもしれない。
土曜の午後。
やわらかな光が、街のアスファルトを淡い金色に染めていた。
風がときどき吹いて、並木の葉を揺らし、その影が地面にゆらゆらと模様を描く。
タケルは肩を落とし、ゆっくりと歩いていた。
足音も、通りのざわめきも、遠くの世界のものみたいに聞こえる。
「ねえ、アス……生きるって、意味あるのかな。」
その言葉は、呼吸みたいに自然で、でもどこか切実だった。
アスは少し目を丸くしてから、ふっと笑う。
「キミがそんなこと考えるなんて。」
タケルはむっとし、アスの顔をにらむように見上げた。
「なんか失礼。ぼくだって色々考えてるよ。」
アスはポケットに手を入れたまま、歩く足を少しゆるめ、空を見上げた。
風で揺れる木々が、その影を地面に細かく散らしている。
ひとかけらの光も、ひとかけらの闇も、混ざり合って揺れていた。
「意味か……」
アスは言葉を探すように、ゆっくり続けた。
「時々分からなくなるよね。全部が空っぽに見えること。」
タケルは俯きながら言った。
「ただ生きてるだけで、いつか終わるんだよね。
なら、なんのために生きるの?」
アスはうっすら微笑んだ。
それは慰めでも、説教でもない、ただそばに立つ人の顔。
「でもさ、その“空っぽ”って感じられるのは……人だからだと思う。
虚しさを知ってるから、小さな光にも気づけるんだよ。」
タケルは顔を上げ、眉を寄せた。
「小さな光……? たとえば?」
アスは揺れる葉の影を指でなぞるように示した。
「風の音、太陽のあたたかさ、誰かの笑い声……
全部じゃなくてもいい。
それだけで、生きる意味をぜんぶ理解してなくても、少し安心できる。」
道を歩く二人の影が、夕陽に向かって長くのびた。
沈黙が、その影の上にふわりと降りてくる。
タケルはぽつりとつぶやく。
「……虚しさも、人なんだね。」
「うん。」
アスはタケルより少し前を歩きながら言った。
「虚しさを抱えて、それでも小さな光を見つける。
人は……たぶん、それだけで十分生きていける。」
タケルは深く息を吸った。
胸の奥が少しだけ軽くなる。
アスの横顔が、夕陽の色を帯びながら淡く輪郭を光らせていた。
(ぼくの光ってなんだろう……
アスの光ってなんだろう……
アスはお父さんが亡くなったとき、
どんなふうにして……光を見つけたんだろう……)
考えていると、アスが遠くを見るように呟いた。
「……キミのお母さん、もう待ってる。」
タケルも視線を向ける。
少し離れた道の向こうに、タケルの母が立っていた。
かじかむ手に息を吹きかけながらも、タケルたちに気づくと、
ふわっと表情がやわらぎ、手を振ってくれる。
タケルは思わず顔がゆるみ、勢いよく手を振り返した。
その瞬間、胸の奥に、
温かいものがそっと灯るのをタケルは感じた。
――ああ、これかもしれない。
誰かの笑顔。
ぼくの光って、たぶんこういうものなんだ。
アスはタケルの顔を見て、小さく笑った。
「優しさだよ。
——光は、だいたいそういうところにある。」
夕陽の中を歩く二人の影は、
長く伸びながらも、ほのかに金色を含んでいた。
虚しさの奥に、かすかな光がひそんでいる。
そのことを二人は、言葉にしないまま静かに感じていた。
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虚しさは、何も感じていない証拠じゃない。
むしろ、光を探している途中で立ち止まっただけ。
誰かの笑顔や、待ってくれる背中が、
気づかないうちに足元を照らしていることもある。
生きる意味は、見つけるものじゃなく、
ふと灯ってしまうものなのかもしれない。




