第315話『相性』
人と人が出会うとき、
理由や名前がつく前に、
空気だけがそっと先に触れることがある。
それを、相性と呼ぶのかもしれない。
カフェにアスは母親と弟と来た。
アスがお手洗いから出てくると、
廊下の影から突然、軽い声が飛んできた。
「わ」
驚かそうと前に出てきた人影――みきさんだった。
その不意の声にアスは肩を跳ね上げ、「わっ」と声を返し、
持っていたハンカチが床に落ちた。
みきさんは口元を押さえて笑い、すぐに屈んでハンカチを拾う。
「すみません。ハンカチ落としてしまいましたね。」
丁寧に両手で差し出しながら、
「洗って返します。」
と申し訳なさそうに言う。
アスは受け取りながら、首を横に振って微笑む。
「大丈夫。」
廊下にはカフェの甘い香りとコーヒーの湯気が薄く流れている。
みきさんはふっと息を整えたように言った。
「すみません。見かけたのでつい…」
アスは笑い、
「ひとり?」
と聞く。
みきさんはカフェの席をチラッと見て、軽く頭を下げる。
「はい。それでは。」
そう言ってお手洗いへ向かった。
アスが席に戻ると、弟のタブレットの音が少し大きく響いていた。
アスはそっと音量を下げる。
母親がカフェラテをすすりながら、上目遣いで言った。
「ねぇアーくん。ショートステイにシンを送ったあとスーパー寄っていい。」
「大丈夫だよ。」
アスは穏やかに微笑む。
「今日は、シンはお泊りひとり?」
そう聞くと、母親は嬉しそうに、
「違う。同じ支援センターに通ってる子でシンと相性がいい子がいるんだって。その子と2人みたい。」
「へ〜そんな子がいるんだね。シンは凶暴な子は苦手だから穏やかな子なのかもね?」
「うん。お母さんも誰かはわからないんだけど、シンは少し臆病だからその子と先生が組んでくれてるみたい。」
アスが紅茶のケーキを食べながらふと店内を見回すと、
斜め前の席に、みきさんが一人で静かに座っていた。
湯気の向こうに、彼女のぼんやりした横顔がゆっくり揺れている。
アスが見ているのに気づいたのか、
みきさんはふっと表情を和らげ、頭を下げる。
アスも軽く礼を返した。
そのやり取りに気づいたアスの母親が、視線をそちらに向ける。
みきさんは同じように微笑んで頭を下げた。
つられるように母親も会釈し、アスに尋ねる。
「知ってる人?」
アスはケーキを頬張りながら、
いつもの調子で淡々と答える。
「うん。公園でたまに会う。あっシンと同じ支援センターに行ってるシンと同じ年の息子がいるよ。」
母親は目をぱちぱちさせる。
「ウソー凄い偶然。でも支援センターで会ったことない。なんて人?」
アスは少し笑って言う。
「みきさん。」
母親は「ん?」と考える仕草をしてから、
何か繋がったようにみきさんに声をかける。
「支援センターが同じって息子から聞いたんですけど、もしかして旦那さんが送り迎えしてませんか?」
みきさんは、ぼんやりとした視線で母親を見つめ、
そのまま柔らかく微笑む。
「はい。」
その返事に安心したのか、母親は親しみを込めて話し続ける。
「みきさん?の息子さんおおきいですよね?」
みきさんの口元が少しだけおどける。
「はい。体だけ巨大化してます。」
母親は思わず吹き出した。
「今日は一緒じゃないですか?」
みきさんはしばらく考え、ゆっくりと答える。
「はい。保育園に行ってますね。」
「保育園も行かれてるんですか?」
みきさんは開いていた画集をそっと閉じる。
「はい。彼はサラリーマンみたいに多忙です。保育園、支援センター2箇所、ショートステイ」
「ショートステイも?」
「毎週行ってますね。」
アスと母親は驚き顔で見合わせる。
「もしかして、この辺ならアメリ?」
「はいアメリ。」
母親は一気に声が明るくなる。
「ウチの子もアメリに行ってて今日なんです!」
みきさんは少しぼんやりしてから、
そっとシンに目を向けて微笑む。
「同じです。」
母親の表情に嬉しさが広がる。
「息子さんは毎週木金どちらかに入れてますね?」みきさんが言う。
「そうなんです。」母親は頷く。
みきさんは淡々と、でも優しい声で、
不意に大事なことを伝えるように言う。
「実は、同じ日によく入れてもらってるんです。」
「そうなんですか?知らなかった」
みきさんはシンを見つめ、
それからアスと母親に視線を戻す。
「優しいですね。感じが。」
その一言に、アスと母親は顔を見合わせ、少し照れながら微笑んだ。
みきさんは短い沈黙ののち、
静かに窓の外へ視線を向ける。
「ウチの子はだれでもオッケー型なんですけど、優しい子と過ごさせてあげたいなって。」
その言葉は柔らかく、それでいてどこか胸に残った。
急に時間を思い出したように立ち上がり、
丁寧に頭を下げる。
「そろそろ時間ですので、ありがとうございました。またお会いする事がありましたらお話しましょう」
コートがふわりと揺れ、みきさんは静かに去っていった。
アスと母親はしばらく、その後ろ姿をぼんやり目で追った。
「不思議な雰囲気の人…」
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◆夜、ショートステイの駐車場
冷たい風が吹く駐車場を歩いていると、
「こんばんは」
と後ろから声がかかった。
振り返ると、みきさんが小さな男の子の手を握って立っていた。
「また会いました。」
みきさんは夕闇の中で静かに微笑む。
アスと母親は驚きながら互いに顔を見て、アスが言う。
「相性がいいってみきさんの息子だったんだね。」
母親は嬉しそうに頷く。
みきさんの息子は目を輝かせ、
夜の空気を切るような速さで呟いた。
「アメリ、よる、くらぃ、そと、せんせ、かぜ、さよならヤイヤイ〜」
今の状況をそのまま言語化する、あの独特のリズム。
シンはぽかんと見つめ、少ししてからマネして言った。
「ヤイヤイ」
アスと母親は思わず笑い、
その笑顔を見たみきさんは目を細めて静かに微笑んだ。
言葉が少なくても、説明がなくても、
同じ速さで世界を見ている瞬間がある。
その一瞬の重なりが、
静かに「だいじょうぶ」を連れてくる。




