第314話『影の中のほんとう』
放課後の美術室は、
昼と夜のあいだにできる、少し不確かな場所だった。
光と影が静かに混ざり合うその時間に、
タケルとアスは、目に見えないものの話をはじめる。
放課後の美術室。
窓から差しこむ夕陽が、机や椅子の角をそっと金色に縁どっていた。
水の入ったバケツは淡く光を受けて、壁にゆらめく反射を投げている。
まるで部屋の奥に、もうひとつの小さな世界があり続けているようだった。
タケルは絵の具をふき取りながら、ふと呟いた。
「ねえ、アス。絵って、なんのために描くんだろうね。」
アスは使い終わった筆を指のあいだでくるくる回し、
光の方を見るようにゆっくり言った。
「見えるものを描くためじゃないと思う。」
「じゃあ、なにを描くの?」
アスは夕陽を背にして、少し笑った。
「見えないものを、見えるようにするため。」
タケルは目を瞬かせる。
「見えないもの……?」
「うん。たとえば“心”とか、“真実”とか。
ほんとうのものって、だいたい目に見えないんだよ。
見えてるのは、その“影”なんだ。」
タケルは自分の描いた風景画を見つめた。
ついさっきまで色を塗っていたはずなのに、
その木が、静かに別の表情でこちらを見返してくる気がした。
「じゃあ、この木も影?」
「影。でも、その向こうに“木のイデア”がある。」
「イデア……?」
「うん。プラトンっていう大昔の哲学者が言ったんだ。
ぼくらが見てる世界は、ほんとうの世界の影なんだって。」
タケルは思わず聞いた。
「プラトンって、アスの友達?」
アスは吹き出して笑った。
「友達になりたかったけどね。何千年も前の人。」
タケルはアスを見上げて言った。
「アスってさ……今の時代にいるのが不思議なくらい、大昔の人と話が合うよね。」
アスは机にちょこんと腰かけ、嬉しそうに笑った。
「それ、すごく嬉しい。」
「褒めてないから……」
タケルは呆れたように言って、バケツの水をのぞきこんだ。
夕陽が水面に映りこみ、揺れている。
その揺れに合わせて、天井近くの壁にも赤い光が揺れた。
「じゃあさ、ぼくらが見てる夕陽も……?」
アスは静かにうなずく。
「うん。影。
でもその光の向こうに、“ほんとうの光”がある。」
そのとき、風が入ってきて、
半分だけ閉じていたカーテンがふわりと持ち上がった。
白い布の影が、ゆっくり壁を横切り、
夕陽の赤と重なって、少しだけ深い色になった。
タケルはその影を見つめて、小さく笑った。
「なんか……ちょっとこわいけど、きれいだね。」
アスはその言葉が嬉しそうにうなずいた。
「影があるってことは、光があるってことだから。」
アスはそれから、静かに付け加えた。
「光がさすと影がうまれる。影があるから、光はありがたいんだ。」
タケルはアスの横顔を見て呟く。
「いい言葉だね。」
アスは照れくさそうに目を伏せて笑った。
「棟方志功っていう芸術家の言葉だよ。
白と黒の世界に“命”を刻んだ版画家なんだ。」
タケルはもう一度カーテンの影を見てから、
足元にのびた自分の影をじっと見つめた。
夕陽を背に動かすと、影もゆるやかに揺れ、
まるで別の生き物のようについてくる。
「……芸術家って、すごいな。」
タケルは影の形を変えるように足を動かし、
その黒い輪郭が伸びたり縮んだりするのをしばらく眺めていた。
その横で、アスもまた、
壁にゆれる光と影の境界を、言葉もなく見つめていた。
夕陽が沈むまで、二人の影は美術室で静かに重なったり離れたりしていた。
---
影は、嘘ではない。
ただ、すべてではないだけだ。
光があるから影が生まれ、
影があるから、光の輪郭がわかる。
二人が見つめていたのは、
絵でも夕陽でもなく――
その奥にある、ほんとうの気配だった。




