第313話『シンの世界』
人には、それぞれ違う世界がある。
同じ教室にいても、同じ言葉を使っていても、
見えている景色は、きっと少しずつ違っている。
朝の教室は、まだ人の気配がまばらで、
窓際には薄い冬の光が静かに差し込んでいた。
その光の中で、若林さんがひとり窓の外を見ていた。
髪がさらりと肩に落ち、風もないのに少し揺れたように見えた。
「若林さん、相変わらず朝早いね。」
タケルは軽く笑いながら、彼女の前の席に座った。
「おはよう、タケルくん。学校……やっと来たのね。」
若林さんは長い髪を耳に掛け、タケルの顔をじっと見た。
「うん。って、学校来て三日は経ったけど……」
タケルが小さく笑うと、若林さんはふぅっとため息をついた。
「あのね、タケルくんの周りに友達がずっといたから……
話しかけにくくて。」
タケルは首をかしげて、少し申し訳なさそうに笑った。
「ごめんね。休んでたことに、みんな興味があったみたいで。」
若林さんはタケルへ一瞬だけ柔らかく微笑み、
また窓の外へと視線を戻した。
その表情に、何か迷いのような影が混じる。
少し間を置いて、彼女がふいに言った。
「タケルくんは、アスくんの弟……知ってる?」
「え?」
想像していなかった質問に、タケルは小さく声を漏らした。
「知ってるよ。シンとはよく遊ぶから。……なんで?」
若林さんはタケルのほうへ顔を向けたけれど、
その先の言葉をすぐに続けられないようだった。
「アスくんの弟って……」
そして言葉を濁す。
短い沈黙。ためらい。
ようやく、静かに続けた。
「……話せないって、アスくんが言ってたけど、
私……よくわからなくて。それで……」
若林さんの瞳が、不安にも似た色で揺れた。
タケルはゆっくり微笑み、言葉を選ぶように答えた。
「シンはね、すごいんだ。
光で遊んだり、影にくすぐられたみたいに笑ったり。
僕たちが見えない世界が、ちゃんと見えてるんだ。」
若林さんは目を見開き、タケルの話に耳を傾ける。
タケルは続けた。
「アスはね、シンの世界に憧れてるんだって。
シンは“言葉の前の世界”に生きてるから。
僕たちよりずっと繊細で、僕たちよりずっと深い世界を知ってるんだ。」
シンの姿を思い出すように、タケルはふっと微笑んだ。
「若林さん、自閉症スペクトラム障害って知ってる?」
「自閉症スペクトラム……障害……?」
若林さんは小さく繰り返し、それから言った。
「知ってるけど……実際に会ったことはない。」
「ぼくも、シンと出会って初めて会ったんだ。」
若林さんはまた窓の方へ目を向け、
光の向こうをじっと見つめた。
「……そう。」
その声は、どこか温度を含んでいた。
タケルはそっと言った。
「若林さん。シンに会ったら、きっと好きになるよ。
すごくいい子なんだ。
純粋で、優しくて……すごく可愛い。」
若林さんはタケルの顔を見て、少しだけ笑った。
「……会ってみたい。私も。」
その笑顔は、朝の光の中で溶けるように柔らかく見えた。
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言葉にならない世界は、遠いようで、すぐ隣にある。
理解できなくても、触れられなくても、
それを「大切だ」と思えること自体が、
やさしさなのかもしれない。




