第308話『情熱⑪愛を手に入れるため…露葉とアス。』
偶然のようで、偶然ではない出会い。
日常の片隅に差し込む光の中で、ふたりは互いの距離を静かに測り合う。
小さな声、指先の動き、笑みの揺らぎ――そんなささやかな瞬間が、愛を少しずつ形作っていく。
カフェの奥の窓際。
外は午後の光が斜めに差し込み、ガラス越しに街路樹の影がゆらゆら揺れていた。
そこに露葉はいた。キャップを深く被り、パーカーにズボン、スニーカー。普段の儚げな装いとはまるで別人のようで、どこか少年の影をまとっている。
指先でヤン・トーロップの画集をなぞりながら、紙の擦れる音だけが小さく響いていた。
アスは静かに席に滑り込み、彼女の横顔を覗き込む。
「作風がころころ変わる画家だよね?」
声をかけると、露葉はふっと顔を上げ、微笑んだ。
「うん。面白い。……アスくん、こんにちは。どうしたの?」
アスは小さく笑い、肩を竦める。
「偶然、通りかかったらお姉さんが見えたから。」
「偶然出会ったね。」露葉は軽く首を傾ける。「何か飲む?好きなの選んで。ごちそうする」
アスは紅茶を頼んだ。
湯気の立つカップを手に取り、アスがぽつりと言う。
「偶然ってあると思う?」
露葉は目だけをアスに向けた。
「うん。今こうしてお茶してるのも、偶然。」
アスはひと口すすってから、かすかに笑った。
「本当はね、お姉さんを探してたんだ。兄ちゃんがお姉さんを探していたから。……いつものカフェじゃない“いつものカフェ”にいると思ってここにきた。」
露葉は画集を閉じ、メニューを開いてパンケーキを注文した。
「シェアして食べよ」
柔らかく笑いながら言う。
少しの間、沈黙。
カトラリーの音と、アロマのような甘い香りだけが漂った。
「兄ちゃんからの電話、出ないの?」
アスが切り込む。
露葉は視線を落とし、少し間を置いて口を開いた。
「アスくん。偶然って、ないと思わない?」
「うん。」
「どちらかが偶然を装うの。」
「そうだね……今お茶してるのも。ボクが装った」
アスは唇の端を上げて、くすっと笑った。
パンケーキが運ばれてきた。
露葉はナイフを入れ、丁寧に小さく切り分けてアスの皿に移す。
「どっか行くの?」
「うん。しばらく家を空ける」
フォークでひと口運びながら、淡々と答えた。
アスは静かに問いかける。
「お姉さんは、いつから兄ちゃんを好きなの?」
露葉は驚いたように目を見開き、すぐに笑った。
「へ〜わかるんだね。アスくんには…。
ずっと前から、龍賢のことが好きだった。ずっと片思いしてた。今もかな。」
その声音は揺らぎがなく、恥じらいを纏う普段の彼女とは別人のように堂々としていた。
「兄ちゃんは単純そうに見えるけど、難しそう。……真っ直ぐで、純粋だから。」
アスの言葉に、露葉は柔らかく笑んだ。
龍賢を想うその笑みは、確かに本物だった。
「純粋で、真っ直ぐで……だから。」
そこで言葉を切り、しばし沈黙。
そして小さく呟く。
「壊したい。……もう少しで壊せそう。」
アスはパンケーキを置き、じっと露葉を見つめる。
「十分壊れてると思う。……ちょっと、やり過ぎかも。」
そう言ってくすくす笑った。
「お姉さんと間違えて、ボクに電話してきた。『露葉ごめん』って何度も言ってた。……会いたいって。」
二人は目を合わせ、同時に笑う。
やがて露葉は、視線を画集へと戻した。
「ヤン・トーロップはね、作風が別人みたいに変化する。でも、芯は同じだと思うの。」
その呟きは独白のようで、しかしアスに投げかけられていた。
「うん。そうだね。」アスは頷き、笑みを返した。
カフェの外では夕暮れが忍び寄り、ガラス窓に二人の影が静かに揺れていた。
窓越しに揺れる影と、カフェの静かな光。
言葉にならない会話が、二人の距離を縮め、信頼と情熱をそっと積み重ねていく。
芯の変わらぬ想いと、少しずつ芽生える感情の交差。
夕暮れに染まる街の色が、ふたりの心にも、柔らかく落ちていった。




