第306話『情熱⑨愛が確かなものになるまで…』
人は、失いかけて初めて
自分が何を守ろうとしていたのかに気づく。
それは愛なのか、恐れなのか、
それとも――自分自身なのか。
夜の冷たさの中で、
ふたりの時間は、もう一度ゆっくり動き出す。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
膝を立て、顔を覆ったまま座り込んでいると、ふわりと肩に暖かいものがかけられた。
驚いて顔を上げると、紙袋をぶら下げた露葉が立っていた。
キャップを深くかぶり、オーバーサイズのスウェットにズボン、ゴツいスニーカー。
そのラフな姿からは、かすかに外の空気の匂いがした。
彼女が巻いていたマフラーを、無言で俺の肩に掛けてくれる。
「寒いのに、こんなところで寝てたら風邪引くよ」
ふっと笑いながら、隣に腰を下ろす。
目が合った瞬間、龍賢は反射的に視線を逸らした。
「どこかに行ってたの?」
そう尋ねると、露葉は少し間を置き、「探しに……」とだけ答えた。
「何を?」
「自分を」
彼女は目を閉じ、深く息を吸い込む。
吐く息が白く夜に溶ける。
「少し…電車で旅行に行ってたの。龍賢にお土産もある」
「ひとりで?」
「ひとりで」
そう言って、覗き込むように微笑むと、彼女は立ち上がり、龍賢の手を握った。
「家に入ろう」
――
風呂に入るよう促され、湯に身を沈める。
熱い湯がこわばった体を溶かすのに、心のざわめきは少しも和らがなかった。
湯から上がると、食卓には夕餉が並んでいた。
入れ替わりに浴室へ消えていった露葉は、しばらくして髪を濡らしたまま現れる。
前髪の先から雫がつたう。その姿だけで胸が高鳴る。
暖房の効きすぎた部屋。
彼女は薄いキャミワンピース姿で、静かに食卓につき、黙々と箸を動かす。
沈黙の時間がやけに長く感じられた。
食後、アロマを焚き、湯気の立つハーブティーを淹れて俺に差し出す。
ソファに座った俺から少し距離を置いて、露葉も腰を下ろした。
金木犀の香りとアロマの甘い香りが混ざり合い、胸の奥をくすぶらせる。
「露葉、ごめん」
ようやく龍賢は口を開いた。
「なにが?」
「連絡しなかったこと。来てくれたのに追い返したこと。少し素っ気ない態度を取ったこと。お父さんのこと……色々。最近、本当にごめん。俺、露葉に凄く会いたかった。」
返事はなく、ただ静かな沈黙が流れる。
ティーカップの縁に口をつけた彼女は、やがて不意に問いを投げた。
「龍賢は……どうして私と結婚したいと思ったの?」
目を逸らさず、龍賢は答えた。
「露葉と、一緒にずっといたいから」
「そう……」
短く呟き、またしばらく黙る。
そして――
「なんで一緒にいたいの? 義務?」
「義務って……そんなはずないだろ」
「じゃあ同情? 可哀想だから?」
「ちょっと待って。同情で一緒にいたがるように見えるか?」
「見え……な……くもない」
「ちょ、そんなことないだろ……露葉、怒ってる?」
ハーブティーをゆっくり口に運ぶ露葉は、静かに彼を見た。
お風呂上がりの肌にうっすら残る赤み、滴る髪、薄布越しの華奢な肩――
そんな姿に見惚れながら、龍賢は改めて思う。
彼女はやっぱり、どこかこの世から少し外れている。
手の届かない、異質な美しさをまとって。
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同じ部屋にいても、
心はまだ同じ場所にいない。
近さは、安心にもなるし、
いちばん鋭い問いにもなる。
静かな沈黙の中で、
答えはまだ、言葉になる前で揺れている。




