第305話『情熱⑧愛が確かなものになるまで…』
好きだという気持ちは、
ときどき正しさよりも先に、恐れを連れてくる。
守りたいはずのものから、
いちばん遠ざかってしまうことがある。
自宅に帰ると、自然と手が携帯に伸びた。何度も何度も彼女に電話をかける。しかし、応答はない。
次の日も、その次の日も、無音が続く。胸の奥がざわつき、気持ち悪いと思われるかもしれないという恐れが、吐き気とともに龍賢の体を支配する。それでも電話を掛け続けた。
一週間が過ぎ、休みの日の朝。龍賢は彼女の家へ向かった。骨董品屋の二階、彼女がひとりで暮らす場所。店は定休日の紙を貼り、静まり返っている。裏手に回り、インターフォンを押しても、返事はない。
駐車場には彼女の車がある。居留守…か、それともどこかにいるのか――足元の砂利を踏みしめながら、歩いて思い当たる場所を探す。だが、彼女はどこにもいなかった。
自分が招いた結果なのに、ふと、もしかしたらもう…彼女は俺と別れたいのではないかという考えが胸を突き刺す。
愛想つかされてしまったのではないかと思うたび、痛い。胸が、ズキンと刺すように痛む。
彼女が別の誰かのものになったら…
考えただけで焦りと苛つきに襲われる。
自分が仕向けたのに…そんなつもりじゃなかったなんて、虫が良すぎる。でも本当に、そんなつもりじゃなかった。
苦しかった。彼女が好きでたまらなくて、苦しかった。平常心でいられない事で今まで堪えてきた色々なことが壊れるんじゃないかって…
日々修行のように感情を動かさず生きてきたのに…
乾いた笑いが喉から漏れ、風に吸い込まれていく。
いなくなるかもしれないと思った瞬間、必死で引き留めたくなる。
俺は一体、何をしている…。馬鹿すぎて、笑える。
彼女は何度も電話をかけてくれた。会いに来てくれたのに、俺は追い返した。
彼女は電話の発信音を聞き、どんな気持ちで待っていたのか。
朝早く、コートも着ずに、お寺の前で俺が出てくるのをずっと待っていたことを思うと、胸が締め付けられる。
顔色が悪かった…あの時いつから待っていたのだろう。寒い中、どれほどの時間を。
俺は優しい声をかけただろうか。
何を言った?
帰った後、なぜ追いかけなかったのか。
むしろ、ほっとしていた。
露葉の親父さんに挨拶に伺うのは俺の役目だったのに、行きもせず、また彼女を傷つけた。
俺の親に謝る彼女の姿が、ふと浮かぶ。
人前で親父さんに怒鳴られ、情けなさと恥を味わい、婚約者も現れず、涙しながら謝ったのだろうか。
彼女の姿を思うと、今まで感じたことのない罪悪感が全身を貫く。
取り返しのつかないことをしたと、今更、ようやく気づく。
龍賢は骨董品屋の玄関前に座り込んだ。
冷たい石畳が膝に食い込み、手のひらまで冷える。夜の風が砂埃を連れて頬を撫でる。遠くの街灯が揺れ、波の音がかすかに響く。
許してもらえるはずがない。
でも、心の奥底では――彼女を、失いたくないと…。どんな事をしても引き留めたいと…。
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冷たい石の感触と、夜の風。
失うかもしれないと知ったとき、
ようやく“愛していた”ことだけが、
はっきりと残っていた。




