第304話『情熱⑦愛が確かなものになるまで…』
人は、同じ場所に立っていても
見ている世界が違うことがある。
手に取れる現実と、触れられない光のあいだで、
龍賢の心は静かに揺れていた。
御経をあげ終えた後、お茶を頂いていると、普段は姿を見せない娘さんがふらりと部屋の入口に現れた。
ブラウスにピチピチの半ズボン、茶色に染めたロングヘアーを乱雑にクリップで束ねヘアーバンド、眉も描かないすっぴん。ちらっと龍賢を見て、無愛想に「こんにちは」とだけ言い残し、顔にクリームを塗りながらすぐ奥へ消えた。
『すみませんね、愛想がなくて』
親より少し年上の加藤さんが、申し訳なさそうに言った。
『昨日は看護婦の同僚と飲み会だったみたいで、夜中帰ってきて、服もそのまま化粧もしたまま、寝ちゃったんでしょうね。はぁ〜全然だらしないんだから』
龍賢は茶碗を手に取り、曖昧に頷いた。
「同僚と飲み会」──あまりにも当たり前の生活。
疲れて帰って、化粧も落とさず遊びに行ったままの格好で寝てた娘の姿。
それは現実に根を張った人間の営みで、ある種の安心感さえあった。
けれど、露葉は。
露葉はその輪の中にはいない。
同僚と飲み会に笑う姿も、愚痴をこぼして眠る姿も、想像ができない。
彼女は、別の次元に生きているようだった。
この世の流れに馴染むことのない、一羽の白い鳥。
『和尚さんも、まだ結婚されていないんですよね?…ねぇうちの娘、どうです?』
加藤さんが軽く笑って言った。
龍賢は一瞬、視線を茶碗に落とした。
湯気がかすかに揺れて、心を覆う靄のように見えた。
『すみません。…恋人がいるんです』
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が痛みで軋んだ。
恋人──露葉。
彼女は現実に生きているはずなのに、なぜか手の届かない別の世界にいる。
地に足をつけていながら、どこか浮遊していて、常に孤独を背負い、祈るように光を見ている。
龍賢は茶碗を見つめながら思った。
自分は彼女に憧れている。
彼女の眼に…。
白い鳥のように、ひとりでも迷わず飛んでいける心を持ちたい──。
現実に根を張る生き方と、
どこかで風を聴き続ける生き方。
そのどちらが正しいわけでもなく、
ただ惹かれてしまった眼差しが、
彼を少し遠い場所へ連れていっただけだった。
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