第303話『情熱⑥愛が確かなものになるまで…』
潮の匂いが強くなると、
胸の奥に、言葉にならない予感が満ちてくる。
愛から逃げたつもりで、
本当は「向き合う勇気」から目を逸らしていただけかもしれない――
そんな時間の入口。
あれからしばらく経ったある日、月参りの途中で海沿いを歩いていると、母親から電話がかかってきた。
『はい、なに?』
『なにって龍賢、あんた電話くらい出なさいよ!露葉さんの親父さんが、この前あいさつに来たわよ。あんたが来ないから代わりに来たって』
龍賢は思わず立ち止まり、携帯を持つ手を耳から少し離した。冷たい潮風が吹きつけ、袖の中に腕を引き込みながら答える。
『あ…ごめん。気付かなかった。それで?』
『それでって何よ!はぁ…お酒を飲んでらっしゃったみたいでね。露葉さんが慌てて迎えにきて、すみませんすみませんって連れて帰っていったのよ』
『露葉が…露葉の親父さん、アル中で色々…家庭環境も複雑で…。亡くなられた露葉のお母さんも、露葉も、苦労してきてるから…大丈夫だった?』
潮の匂いが胸に刺さる。
龍賢は足を止め、砂浜に目を落とした。
そこに、一羽の白い鳥が立っていた。
風に逆らえず、羽を小さく震わせながら、それでも迷いなく空へ舞い上がる。
ひとりで、ただ前へ──。
龍賢の脳裏に、露葉の姿が重なる。
あの細い肩で、どれほどの風を受けてきたのか。
『あんた、話聞いてるの?』
空のずっと先へと消えていく白い影を追いながら、龍賢は返事を遅らせる。
『あ、うん。なんだった?』
『はぁ…。あのね、帰り際に露葉さん、泣いて謝ってきたの…すみませんって。そしたら親父さんが怒鳴りだして…。あれは尋常じゃない怒鳴り方…きっといつも…
そういう扱いをされてきたんじゃないかしら』
母親は言葉を切る。
そして会話を続けた。
『ほんとかわいそうで…。健気で哀しくなるほどいい子。…あの親父、最悪。ついでに龍賢も最悪。』
母親は深くため息をしさらに続けた。
『あのね龍賢、大丈夫?じゃないわよ何も。嫌われても自分の責任だからね?大事な時に来ない連絡も取れない…そんな婚約者、嫌過ぎる。
もう手遅れかもかね…あんたフラれるわよ!』
母親はそう言って、電話を切った。
龍賢は息を吐き、携帯をポケットにしまう。
頬を刺す潮風の中、何もできなかった自分への苛立ちが胸を締めつけた。
自分は一体、何をしていたのか。
なぜ彼女から逃げようとしたのか。
手遅れ…フラれる…か……。
母親の声がいつまでも頭に響いた。
白い鳥は、誰にも支えられずに風を渡っていった。
その姿は、弱さではなく、選び続けてきた強さだったのかもしれない。
龍賢が見失っていたものは、
彼女の苦しさではなく、
それでも前へ進んできた「生き方」だった。




