第301話『オーラを読む方法』
冬の午後は、少しだけ世界の輪郭が淡くなる。
そんな光のなかで、人の“気づく力”だけがふっと際立つときがある。
『あれみきさん。』
呼ばれた本人は、タケルとアスを見てから小さく首を傾げ、自分を指差してにこりと笑った。
『こんにちは。』
風が少し吹き、午後の光がベビーカーの取っ手を白く照らした。ベビーカーに座るみきさんの息子は、タブレットのフラッシュカードを信じられない速度でめくりながら、小さく呟き続けていた。その集中の仕方は、まるで周りの世界を薄くしてしまうようだった。
みきさんが息子の耳もとで何か囁くと、息子は一度だけ瞬きをして、ぽつり。
『こんちは。』
タケルとアスも「こんちは」と返し、微笑んだ。アスがふっと口角を上げながら言う。
『もしかして、優先特権利用した?』
みきさんは目を細め、素直に頷く。
『はい。美術館無料だから。』
アスは吹き出し、タケルは「なになに?」と首をかしげる。
みきさんとアスは目を合わせ、アスが説明した。
『障害があると美術館って無料でね、付き添いの人一人は無料なんだって。』
タケルはほんのわずか眉を寄せ、触れたらいけないものをそっと扱うように言った。
『そうなんだね。』
みきさんは、美術館の入口近くに貼られたポスターを見つめて、ため息まじりに微笑む。
『3600円』
アスとタケルは同時にみきさんを見る。
『入場料大人1200円。3回目だから今日で3600円。やった〜3600円ういた。』
みきさんの声は妙に誇らしげで、タケルとアスは思わず笑ってしまう。
『うかせるために連れてきたの?』タケルが聞くと、みきさんは遠くを見るようにして笑った。
しばらく3人で笑った後、みきさんはポスターをもう一度見て、ぽつり。
『はい。うかせるために3回連れてきました。それを優先特権利用と言います。』
アスもタケルも、こらえきれず笑った。
その笑いが落ち着いた頃、みきさんはふとタケルが笑う様子を見て、目を細めて優しく微笑んだ。
『3回も来るほどいい絵なの?』アスが聞く。
みきさんは少し間を置き、静かに言う。
『はい。でも、一回、二回、絵の配置が変わってた。もしかして絵動いた?館長が動かした?私の心が変わった?不思議…』
タケルとアスは顔を見合わせる。
『不思議なのは多分みきさん。変な人。』
みきさんは真剣に考えるようにしてから、こくりと頷く。
『私が?なんで?』
『だって多分変わってたとしても誰も気付かないし気にしない。』
みきさんは「そうですか」と小さく呟き、また息子のタブレットの音に耳を傾けた。
その時、美術館の入口から職員らしき男性が出てきた。みきさんは丁寧に頭を下げる。
『いつもありがとうございます。』職員が微笑む。
みきさんはすかさず聞く。
『あの、絵の配置変えましたか?』
職員は驚き、目を丸くした。
『よく気付きましたね。誰も気付かないのに。月をまたいだ展示だから二回、ちょっと配置を変えたんです。』
そう言って軽く頭を下げ、館内へ戻っていった。
『本当に変えてたんだね。なんか凄いかも。てか今の人誰?』タケルが聞く。
『あの人はね館長です。』みきさんは、当たり前のように言った。
『よく知ってるね』アスが笑うと、みきさんは息子にお茶を渡しながら言う。
『館長オーラが出てましたから。絶対館長。』
タケルは吹き出す。
『そんなオーラあるの?普通のおじさんに見えたけど』
すると、さっきの職員──いや、館長が再び入口へ戻ってきて、館内に入ろうとした瞬間、みきさんが声を掛けた。
『館長。忙しいですね。』
館長は足を止め、振り返る。
『そうなんです。忙しくて』と苦笑し、また入っていった。
タケルとアスは同時に声をあげた。
『本当に館長だ!凄い』
みきさんは、ふっと風の吹く方を見て目を細めた。
『行かないと。』
そう静かに呟くと、二人に美術館のパンフレットを手渡し、丁寧に頭を下げた。
『それではお先に失礼します』
息子の耳もとで何か囁くと、息子はまた一度だけ瞬きをし、
『さよなら。ヤイヤイ』
と、独特のリズムで言った。
残されたタケルとアスは、美術館の外のベンチに腰を下ろし、渡されたパンフレットを開いた。
最終ページに載っていた館長の写真を見て、二人は無言で顔を見合わせ、そして同時に笑った。
誰も気に留めない変化を拾い上げる人がいる。
それだけで、世界は少し静かに面白くなる。




