第300話『優先特権』
雪の名残がまだ冷たい午後、アスは弟と外へ出た。
そこで出会ったみきさんは、どこか強くて、どこか苦しくて、そして少しだけ自由だった。
この日、アスは“親としての知恵”と、“弱さを抱えたまま笑う人”の姿を見ることになる。
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『みきさんこんにちは。』
声を掛けると、みきさんはキョロキョロと周囲を見回してから、やっとアスの方を見た。
『こんにちは』
アスはクスっと笑い、そっと隣にしゃがむ。
アスの弟・シンはじっとみきさんを見つめる。
みきさんは微笑むと、軽く頭を傾けた。
『ベンチに座らないの?』
アスが聞くと、少し考え込むように沈黙したあと答えた。
『座ると見えなくなるから座れないんです。』
みきさんの視線は、遠くの何かを追っているようだった。
『何が見えなくなるの?』
するとみきさんは立ち上がり、息をのむほどの大きな声で、
『こらーダメ、そっち行かない!』
と言いながら、そっとしゃがみ込む。
『息子。』
アスはみきさんの視線の先を追う。
『活発なんだね。滑り台の上の屋根に登ろうとしてる。あっ、あきらめた…滑り台滑った。笑ってる。走り出した…活発。』
みきさんは遠くを見つめながら小さく頷いた。
『はい、多動。いつも何かと鬼ごっこして遊んでる。私には相手の方が見えません。』
アスは思わず笑う。
みきさんもニコニコしながら、シンを見て言う。
『座っていられて偉い。交換して欲しい。』
そう言って立ち上がると、また大きな声で、
『こらー、そっちは外。そっち行かない!』
と注意しながらしゃがむ。
少し息が上がったのか、肩で息をしているのがわかる。
『近くに行って見とかないの?』
アスが聞くと、みきさんは少し沈黙してから答えた。
『できるだけ楽したい。同じ順序通り繰り返してるから、多分大丈夫。』
アスは遊具で遊ぶみきさんの息子を見つめる。
遊具を一周して階段を一段ずつ数え、風に笑いかけ、また滑り台へ戻る。
『本当だね。繰り返してる。』
みきさんの息子は滑り台に向かい、前の子がなかなか行かないのをそっと押す。
『うわ。』
みきさんが思わず呟く。
『あ!親が来た。押さないように息子さんを手で抑えてる。』
アスが声に出して言うと、
『知らないふりしよっと。』
みきさんが小さく笑う。
アスも笑い、みきさんは微笑みながら立ち上がり、軽やかに遊具の方へ走っていく。
相手の親御さんに軽く頭を下げて戻ってきた。
『なんだかんだ言ってもちゃんとお母さんなんだね。』
アスが言う。
みきさんは少し考えてから答えた。
『多分また滑り台に到着した彼は、滑るのが遅いあの子をじわじわ押すと思うんです。』
彼女はシンの前に小さな石を置く。
シンは探していた石が見つかったかのように、嬉しそうに笑い並べる。
『だから、我が子がかわいい親御さんを怒らせる前に、「自閉症なのでご迷惑おかけします」って先に言っておいたんです。』
アスは感心したようにみきさんを見る。
『へ〜、いい方悪いかもしれないけど、隠さないで堂々としてるんだね。』
みきさんは微笑み、アスを見つめたまま少し沈黙し、静かに言った。
『自閉症って言ったら大体許される。自閉症を逆手に取ってるんです。楽したいだけ。』
アスは再びみきさんの息子を見つめる。
滑り台に戻った彼の前には、さっきの子がいて滑れない。
しかし、前の子の親は自然とみきさんの息子を優先させ、自分の子をどかした。
『本当だ…発想が面白いね。みきさん、頭いい。』
みきさんは少し切なげに微笑み、
『優先特権。利用しまくります。』
そう言って、シンにチョコを差し出す。
シンは嬉しそうにそれを受け取った。
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誰かの大変さは、外からは見えない。
でも、その見えなさの中で人は、それぞれのやり方で生き延びている。
みきさんの言葉は、少しずるくて、でも誠実だった。
アスはその強さと弱さを、静かに胸に刻んだ。




