第293話『タケルの家⑤静寂の中の真実』
雨が去ったあとのお寺には、
まだ湿った静けさが残っていた。
その沈黙の中で、タケルの“夢の記憶”と、
アスの言葉がそっと重なり始める――
そんな冬の夕方の物語。
風がすこし冷たくなってきた。
庭の苔の上を渡るその風は、どこか冬の匂いを運んでいた。
木の枝の先には、夕方の光がかすかに残っている。
吐く息が白くゆらぎ、静かな音もすぐに消えていった。
タケルはまだ、さっきの話――
“夢の中で別の日の現実を見た”ということを
ぼんやりと思い返していた。
アスは縁側から少し身を乗り出し、
庭の石灯籠に落ちる光を見ていた。
その横顔は、何か遠い時間を思い出しているように見えた。
やがて、ふっとつぶやく。
「ねえ、タケル。岡倉天心って知ってる?」
タケルは首をかしげる。
「てんしん?誰それ?中華料理人?」
アスは一拍おいて、じっとタケルを見た。
「思想家で、美術運動家。昔の人ね。」
「何その冷たい言い方!あのね、普通は小学生が“思想家”知ってる方が変だって。
それに“てんしん”なんて聞いたら、だいたい中華料理思い出すし普通!」
アスは目を細めて、静かに言う。
「普通って、なに?」
タケルは思わず息をのんだ。
「え?」
「“普通は知らない”とか、“普通はそう思う”とか言うけど、
その“普通”って、いったい誰のこと?」
タケルは、はぁ~っと大きなため息をつく。
「もう、アスってほんとめんどくさいなぁ。てんしんも普通も。」
でも――その言葉を口にしたあと、タケルは少し考えた。
アスはいつも、自分の話をちゃんと聞いてくれる。
“夢で別の夏に行った”なんて言っても、笑わない。
「普通はありえない」なんて、決して言わない。
もしかしたら“普通”って、
いちばん人を見えなくする言葉なのかもしれない。
誰かの“当たり前”で、
もうひとりの“ほんとう”を隠してしまう言葉。
アスは小さく息を吸い、
「岡倉天心は“茶の本”を書いた人だよ。
そこに、『われわれは静寂の中に真実を見る』って言葉がある。」
と続けた。
タケルは少し目を細める。
「静寂の中に、真実……」
アスはうなずき、遠くを見るような声で言った。
「天心はね、“美しいものは、完成よりも未完成の中にある”って言ってる。
静けさとか、余白とか――
つまり、“何も起きていない瞬間”の中に、いちばん深い現実があるって考えたんだ。」
「何も起きてないのに、現実があるの?」
「うん。
たとえば、雨が止んだあと。音がなくなるでしょ?
でもその“音のない時間”に、
ぼくたちはやっと“今”を感じる。
夢もそれと似てると思う。」
「似てる?」
「うん。夢の中って、確かなものが何もない。
でも、静かに見ていると、そこにだけ現れる“真実”がある。
たぶんタケルが見た“別の夏”も、
その静けさの中で、心がほんとうの現実を見つけたんじゃないかな。」
タケルは、縁側に落ちた一枚のモミジを見つめた。
その赤は少しだけ雨に濡れ、光を吸いこんでいた。
その光は、冬の夕暮れの中でかすかにゆれていた。
「……じゃあ、“静けさ”って、夢と現実のあいだにあるものなのかな。」
アスはうなずいて、
「うん。静けさは“境目”なんだ。
過去と未来、夢と現実、心と世界――
そのどっちでもない場所に、真実はいつも静かに立ってる。
天心はそれを“茶”で感じ取ろうとしたんだ。」
「茶?」
「うん。
お茶を点てる音、湯気のゆらぎ、茶碗の中の空っぽの部分――
全部、静寂の中で初めて見える“いのち”なんだ。
だから彼は、“沈黙の美”って呼んだんだよ。」
アスの声は、湯気のようにやわらかかった。
その声の響きさえも、庭の空気に溶けていくようだった。
タケルは、手水鉢に映った自分の顔をじっと見た。
その表情は、どこか夢の中の自分に似ていた。
「……ぼく、あの夏の夢で、静かな音を思い出した。
風の動きも、星の光も、全部ゆっくりで、でもちゃんと生きてた。」
アスは頷いた。
「それだよ、タケル。
“静寂の中に真実を見る”って、きっとそういうこと。
音がなくても、世界はちゃんと動いてる。
夢の中でも、真実は息をしてる。」
ふたりはしばらく黙った。
遠くで鐘の音が、ひとつ鳴った。
その音が消えたあとも、
世界はなお静かに、呼吸をつづけていた。
タケルは目を閉じ、
その静けさの中で、ふとつぶやいた。
「……じゃあ、夢の静けさも、生きてるんだね。」
アスは微笑んで、
「うん。それも“茶のこころ”だよ。」
光が庭を包み、
ふたりの影が、ゆっくりと縁側に伸びていった。
その影の重なりの中に、冬の静かな真実がひっそりと息づいていた。
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風が止むと、ふたりの間に
わずかな“余白”だけが残った。
その沈黙こそ、天心が言う真実のかけらなのかもしれない。
夢と現実の境目で、
タケルが見つけた静けさは
まだ冬の庭のどこかで息をしている。




