第292話『タケルの家④夢のつづきの夏』
雨上がりの午後は、
過去と未来の境目がふっとゆるむ。
濡れた庭の匂いの中で、
タケルの心には“どこかの夏”が
静かに目を覚まそうとしていた。
鐘の音が遠くでまだ響いていた。
タケルはその余韻を聴きながら、
しばらく言葉を探していた。
縁側の下を、ひとすじの水が静かに流れていく。
その細い流れを目で追いながら、
タケルはぽつりと口を開いた。
「ねぇ、アス……もしぼくが夢で“別の日の現実”に行ったって言ったら、信じてくれる?」
アスはすぐには答えず、
風にゆれる庭の苔の上をじっと見ていた。
「……うん。話して。」
タケルは少し息を吸い込んで、
ゆっくりと思い出をたぐるように語りはじめた。
「プラネタリウムで眠っちゃった日のこと、覚えてる?
あの日の夢でね、ぼく、半年前の夏にいたんだ。
お寺の庭で、ふたりで寝転んで星を見てた。
アスが、『エドゥアルト・カスパリデスの絵みたいだね』って言ったんだ。」
アスは目を丸くした。
「……言った。ほんとに言ったよ、それ。」
タケルは頷く。
「そう。でもあの夏は、もう終わってたはずなんだ。
それなのに、夢の中でちゃんと、あの夜の風や匂いがあった。
ぼくは、夢でその“過去の現実”にいたんだ。」
少しの沈黙。
雨上がりの空が、うすく金色に染まりはじめていた。
タケルは続けた。
「そのあとね、また別の夏の日を見た。
知らないのに、なぜか懐かしい夏。
たぶん、まだ来てない夏だった。」
アスは目を細めた。
「……未来の記憶、かもしれないね。」
「未来の記憶?」
「うん。夢って、時間を直線で見てないんだと思う。
たとえば、夜空の星の光も、今見えてるのは何万年も前の光でしょ?
夢の中の時間も、それと似てる。
心の中では“まだ来てない過去”や“もう終わった未来”が、
いっしょに光ってるんだ。」
タケルは黙ってその言葉を聞いていた。
手水鉢の水面に夕陽が映り、金色の波紋がゆっくり広がる。
アスが静かに続けた。
「だから、タケルが見たその夏も、
どこかの現実の“光”なんだと思う。
ただ、それを心が早めに見せてくれただけ。」
「……じゃあ、夢の中の夏は、本当に“あった”のかもしれない?」
アスはうなずいた。
「うん。“あった”し、いまも“ある”。
ただ、ぼくらの心がそれを思い出す順番が、
ちょっとズレてるだけ。」
庭の奥で、ひとすじの風が立った。
濡れた葉のしずくが光を反射しながら、
ひとつ、ふたりの間に落ちた。
タケルは小さく笑ってつぶやいた。
「じゃあ、夢のつづきも……いつかまた会えるね。」
アスは空を見上げて、
「うん。たぶん、それも“未来の記憶”だよ。」
そう言って、光に目を細めた。
遠くの空には、虹のかけらのような薄い光がかかっていた。
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夢で見た景色が、
本当にあったのかはわからない。
でも、心が覚えている光は、
たぶんどこかの時間から
そっと届いたもの。




