第290話『タケルの家②雨と君と記憶。』
雨の日のお寺には、
いつもより少しだけ“古い時間”が流れているように感じる。
霧の白さも、濡れた石畳の匂いも、
過去と今をそっと重ね合わせてくれるようで――
タケルとアスが気づかないうちに、
心の奥で眠っていた記憶がゆっくり息をしはじめる。
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山の方から霧が降りてきて、
お寺の庭は白くかすんでいた。
濡れた石畳に散ったモミジの葉が張りついて、
ところどころに、赤い灯りのような色を残している。
鐘楼の屋根から落ちる雫が、
ぽつり、ぽつりと規則正しく響く。
冷たい空気が、境内の隅々まで静かに満ちていた。
タケルとアスは縁側に並んで座っていた。
雨の音は遠くでざあざあと続きながら、
ここだけはまるで時間が止まっているようだった。
風もないのに、どこからともなく鈴の音がかすかに聞こえる。
雨の匂いが線香の香りと混ざり合い、
胸の奥の奥を、そっとくすぐる。
少し離れた軒下に、小さな長ぐつがひとつ置かれていた。
アスの弟のものだ。
今日は来ていないのに、
その青い長ぐつだけが、雨に濡れて静かに光っている。
タケルが小さな声で言った。
「アス、雨って……なんかわからないけど何かを思い出すね」
アスはうなずき、
庭の苔の上を流れる雨筋を目で追いながら答える。
「うん。昔の感じがする」
縁側の木の床に、しずくが一粒、ぽとりと落ちる。
その音を聞きながら、アスは少し間を置いて口を開いた。
「ねえタケル。脳ってさ、記憶をしまってるって知ってる?」
「うん、兄ちゃんが似たような事言ってたのを聞いたことあるかも」
「でもさ、心はたぶん……それを夢にしてるんだと思う」
「夢に?」
「うん。脳の中で眠ってた記憶を、心が見つけて、
もう一度、違う形で見せてくれるんだよ。
だから“懐かしい”んじゃなくて――“いま懐かしい”んだ。」
タケルは、庭の手水鉢に落ちる雫を見つめた。
水面にできた波紋が、ゆっくりと広がり、
やがてまた静けさに溶けていく。
「じゃあ、心って、記憶を動かしてるのかな」
アスは小さくうなずいた。
「うん。脳は記憶を保存するけど、
心はそれを――生き返らせるんだよ。」
そのとき、廊下の奥から、
小さな足音が聞こえた気がした。
ふたりは顔を見合わせる。
でも、誰もいない。
ただ、風鈴のような鈴の音が、
どこかで一度だけ、鳴った。
雨がやんで、霧がゆっくりと晴れていく。
庭の苔の緑が、少しずつ息を吹き返すようだった。
青い長ぐつの上に、一滴の水が落ちた。
タケルは目を閉じる。
――心のどこかで、まだあの子は、
雨の音を聴いている気がした。
鐘の音が、静かに空に溶けていった。
思い出すということは、
ただ記憶を呼び起こすだけじゃなくて、
その瞬間にもう一度、
自分の心の中で“生きてもらう”ことなのかもしれない。
雨と霧が晴れていくように、
ふたりの胸の中にも、静かにひとつの光が戻ってきた。
消えたものと、まだそこにいるものの境界が、
静かに溶け合うような午後だった。




