第289話『タケルの家①怠けたい日。』
雨の日は、時間の歩く速さがいつもと少し違う。
外の景色も、胸の中の気持ちも、静かに沈んでいくようで、
けれどどこかあたたかい。
そんな“動かない午後”のなかで、タケルとアスの小さな気づきがゆっくり芽を出す。
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その日は、何をする気も起きなかった。
朝から雨が、ゆっくりと降りつづいていた。
窓の外はしっとりと白くにじんで、庭の石の上には、丸い水の模様が絶えず広がっている。
せっかくアスが遊びに来てくれていたのに、
タケルは机に顔を伏せたままだった。
アスはそんなタケルを見ながら、ストローでジュースをすする音を立てた。
「体調、まだ悪いの?」
タケルは顔をアスの方に向けて、ぼんやり答える。
「ううん、大丈夫。ただ……何もしたくない。勉強も、外に出るのも。」
アスはしばらく黙ってタケルを見つめていたが、
やがて小首をかしげながら、ゆっくり言った。
「……なまけたい日なのかも。」
タケルは顔を上げて、少し考えてから小さくうなずく。
「そうかも……。」
アスはその言葉を聞くと、窓の外に目を向けた。
しとしとと降る雨の向こうで、銀色の光が揺れている。
「“なまけたい”ってさ、悪いことみたいに聞こえるけど、
もしかしたら、“宇宙が休んでる時間”かもしれないよ。」
タケルが眉を上げる。
「宇宙が?」
「うん。ほら、星だってずっと光ってるけど、
その光は何億年も前の“過去の努力”の残りでしょ。
今はもう、のんびり寝てるかもしれないよ。」
タケルは思わず笑った。
「星のなまけ。ちょっといいかも。」
アスは微笑みながら続けた。
「仏さまの言葉で“惛沈”っていう言葉があるんだ。
心が沈んで、動けなくなること。
でもそれを悪く言うんじゃなくて、“気づく”ことが大事なんだって。」
「気づく?」
「うん。“あ、今ぼく、なまけたいな”って。
それだけで、もう半分起きてるんだよ。」
そのとき、風が吹いてカーテンがふわりと揺れた。
雨のしずくが一粒、机の上に落ちて、静かな輪を広げる。
部屋の光がやわらかくゆれて、少しだけ形を変えた。
タケルは頬杖をついたまま、小さくつぶやいた。
「じゃあ、なまけながら気づくのも、いいのかな。」
アスは目を細めて、静かにうなずいた。
「うん。それ、すごく仏教的。」
窓の外では、鳥の影がゆっくり屋根を横切っていった。
その影の速さも、まるで時間があくびをしているように、
どこかのんびりして見えた。
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静かに流れる午後。
動かないことの中にも、
ちゃんと、宇宙は息をしていた
なまけたくなる日も、立ち止まる瞬間も、
本当はただ心が静かに深呼吸しているだけなのかもしれない。
雨と光が混ざるように、
ふたりの会話の中で、ゆっくりと世界がやわらかくなる午後だった。




