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第287話『時を超えてあるもの』

弟がいない日は、家はとても静かになる。

光の揺れさえ“音”のように感じられるほどに。

そんな朝、アスは母のそばに座り、

言えない気持ちと、言わない優しさが

ゆっくりと同じ空気の中に溶けていくのを感じていた。

それは、家族の影と光が重なる、ひとつの小さな物語。



静かな部屋。弟がいない日は、寝室にテレビの光も音もなく、窓から差し込む午前の光だけが、ゆっくりとカーテンを揺らして床に柔らかな模様を落としていた。

アスはそっとベッドに腰を下ろす。羽毛布団はまだ温かく、微かに母の香りが残っている。

母は気配に気づき、ゆっくりと寝返りを打ち、薄い眠りの瞳でアスを見上げた。


「泣いてるの?」

アスの声は静かで、少し震えていた。

母は慌ててシーツで目元を拭い、短く微笑む。

「あーくん、もう帰ってきたの?」

かすかに微笑む指がアスの手をそっと握った。


アスは母をじっと見つめる。

「うん。ただいま」

微かに口角が上がる。


母は、人知れず涙を流すことがある。

アスはそれに気づいても、深く聞かず、そっと寄り添うだけだ。

母の胸の奥にある寂しさを、感じ取れるから。


戻らない人を待つことと、

戻らないことを知ること。

どちらがより深く、胸を締めつけるのだろう。


少女のように弱々しく、頼りない母。

父はなぜ置いていったのだろう。

愛情深く、情熱的で、深すぎる愛は、母を底なしの沼のように苦しめる。


「ご飯作るね。母さん、ゆっくりしてて」

アスがそう言うと、母はフラフラと起き上がり、首を横に振った。


「あーくん、疲れたでしょ。ゆっくりしてて。お母さんが作るから」

そう言って、母はそろそろと歩き、寝室を出る。

カーテン越しの光は揺れ、床や壁に小さな光の粒を散らす。

まるで小さな星屑が舞い落ちるかのように、部屋は淡い輝きに包まれた。


アスは母の作ったご飯を前に座り、母の話に耳を傾ける。

「今日はね、シンがショートステイについたとき、じっとお母さんを見て“キミ”って言ってきたの。キミ…キミ…って」

母は思い出すたびに微笑み、その頬が淡く赤みを帯びる。


「嬉しかったんだね」

アスも微笑む。


母は頬を肩に寄せ、アスを見つめながら言う。

「うん。すごく。呼んでくれるだけでなんでもいいの」

目を細め、柔らかな光を宿す瞳で微笑む。


アスは思い出したように紙袋を母に差し出した。

「今日行った硝子の博物館のお土産」


母は驚き、袋を受け取る。

「え?お母さんに?嬉しい…

でも、あーくんは好きなもの買ったの?お母さんより、あーくんが好きな物を買って欲しい」


色素の薄い優しげな瞳が、子どものように輝き、アスを見つめる。

アスはふっと微笑み、答えた。

「ぼくは今日、星の投影を2回見たから、それで十分」


母は飾りをそっと見つめ、静かに微笑む。

「えープラネタリウム2回も?あーくんは宇宙が好きだもんね」


アスの心の片隅に、タケルのことが浮かぶ。

大丈夫だったのだろうか…。

プラネタリウムの投影が始まってすぐ、タケルの様子がおかしかった。

それから2時間、眠り続けたタケル。

起きた時には、本人はケロッとしていたけれど…

あの寝ている姿は、眠るというより、時を止めたかのように静かだった。

血の気が引き、蒼白な顔色。

生きているように感じられなかった。


でも、確かに…


「…あれ?これ…」


母の声に、現実の時間がゆっくり戻る。

お土産の袋を開け、小さなガラスの飾りを見つめる母が呟いた。


「13時になった時、世界がはじまる…

ガラスアートの作品。

あのアートの小さな飾りじゃない?」


アスは驚き、母を見つめる。

「知ってるの?」


母はそっと飾りを手に取り、静かに目を細める。

「彼の作品だから…

アスのお父さんが昔作ったものなの」


「父さんが作ったの?」


母は飾りを見つめたまま懐かしむように微笑む。

「アスが生まれる前はね、お父さん、ステンドグラス作家だったの」

まだ展示されていたのね…と、低く独り言のように呟く。


「ねぇ、あーくん。お父さんが帰ってきたら、4人でこの作品を見に行こうね。

お弁当を作って、博物館の近くの薔薇が咲く公園でお昼を食べるの。春がいい。暖かくて、きっと楽しい」


母の声が柔らかく光を帯び、部屋の空気を満たす。

カーテンの隙間から差し込む光が、ガラス飾りを透かし、小さな虹色の光の粒を床に散らす。

まるで室内に小さな星座が生まれ、静かに瞬いているかのようだった。


アスはそっとその言葉を受け止め、胸の奥で揺れる思いを静かに抱えた。


幸せを語る母を見つめるのが、少し痛い。

伝えてしまいたい気持ちが胸に渦巻く。


もう父は、この世にいないんだよ、と。

もう帰って来ることはないんだよ、と。


だがアスは、静かに母の手を握る。

言葉にはせず、そっとその胸の奥で想いを抱き、時を超えて繋がる何かを感じた。

窓から差し込む光と、ガラス飾りに映る微かな虹色の星屑が、静かに二人を包み込む。

人は、言わないことで守っている気持ちがある。

触れてしまえば壊れてしまいそうな願いもある。

アスと母の部屋に落ちた小さな光の粒は、

そのどちらも抱きしめるように静かに瞬いていた。

悲しみも希望も、すべては同じ光の中で揺れている――

そんな時間を描いたお話でした。



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