第286話『崩れてく⑳ 夢から覚めた時。』
ときどき、目を覚ました瞬間に
「さっきまでどこにいたんだろう」と思うことがあります。
夢とも違う、でも“どこかの現実”のような感覚。
タケルが見たのは、そんな境界の向こう側――
まだ名前のない“もうひとつの世界”でした。
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「タケル…」
その声に、意識の底から浮かび上がるように目を開けた。
視界の先で、アスが心配そうにタケルを覗き込んでいる。
プラネタリウムの淡い照明が、アスの頬の輪郭をかすかに照らしていた。
タケルはまばたきを繰り返しながら、体を起こす。
「えと…ここどこ?」
アスはますます深刻な顔になり、
「タケル。ぼくのこと、わかる?」と聞く。
タケルは少し首をかしげて、
「アス」と答えた。
アスはほっと息を吐き、胸に手を当てて安堵する。
タケルは周りを見回しながら、小さくつぶやいた。
「ぼく、寝てたの? 夢?を見た。いや…夢じゃない、その世界の現実を見てた。」
アスはその言葉を静かに受け止めるように、じっとタケルの瞳を見つめた。
そして「あとで聞かせて」とだけ言って立ち上がる。
「起きないから、2回投影を見た。そろそろ出ないと」
そう言ってタケルの腕をそっと掴み、立たせた。
二人は出口へ向かい、ドームを抜ける。
外の空気は少しひんやりしていて、星の光の代わりに廊下の照明がやさしく床を照らしていた。
お土産売り場のそばにあるベンチに、二人は腰を下ろした。
「兄ちゃんは?」とタケルが尋ねる。
「電話しに行って、まだ戻ってこない」
アスはそう言いながら、心配そうにタケルを見つめ続ける。
タケルはその視線に気づき、
「ありがとう。大丈夫だよ」と微笑み、パーカーのポケットに手を入れた。
指先に残る体温が、まだ夢と現実の境目を曖昧にしていた。
しばらくして、龍賢が電話を終えて戻ってきた。
「タケル。大丈夫か?」
心配そうにタケルの前にしゃがみ、顔を覗き込む。
「大丈夫だよ。ごめん」
タケルは少し照れたように笑った。
龍賢はアスに一瞬視線を送り、それからまたタケルの方を向いて言った。
「病院の先生に電話したら、今からタケルを病院に連れて来るように言われた。
ごめん…病院に行こう。」
タケルは一度アスを見た後、目を伏せてゆっくりと頷いた。
――静かな車内。
エンジンの低い音だけが、夜の底を滑っていく。
アスは窓の外を見つめていた。
街灯の明かりがひとつ、またひとつ、流れていくたびに、
その横顔が淡く照らされ、また闇に溶けていく。
龍賢は時おりバックミラーでタケルの様子を確かめる。
タケルはぼんやりと窓の外を見つめ、何かを考えているようだった。
その表情には、どこか遠い場所を見ているような静けさがあった。
アスを送り届け、病院へ。
待合室の時計の針が、淡々と音を刻む。
医者に呼ばれ、龍賢が説明を受ける間、外の空はすっかり暗くなっていた。
病院を出る頃には、夜の空気がしっとりと肌を包む。
タケルは龍賢の隣の席に座り、ハンドルを握る兄の横顔を見つめた。
「兄ちゃん、今日はありがとう。昨日も。楽しかった。
ごめん、ぼく…こんなで。」
そう言って、タケルは視線を窓の外に移した。
街の光が遠ざかる。
フロントガラスの向こうには、微かに霧が漂っていた。
――今が、まるで夢の続きのように。
龍賢は何も言わず、前を見据えて車を走らせる。
その手はしっかりとハンドルを握っていた。
霧の中でも道を見失わないように。
タケルはそっと目を閉じる。
車の振動が、遠い星の鼓動のように感じられた。
夜は静かに、二人を包みこんでいった。
世界はいつも、ひとつだけだと思い込んでしまうけれど、
本当は、そのすぐ隣に
もうひとつの“現実”が静かに流れているのかもしれません。
タケルが感じた揺らぎは、
夢の名を借りて訪れた何かの記憶。
夜の静けさの中で、それはまだ
かすかな光のように、彼の胸に残っていました。
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