第277話『崩れてく⑪かわいい人』
冬の光は、いつもより少し長く、ゆっくり世界を照らします。
何気ない朝の出来事でも、目を凝らせば小さな優しさや、胸にじんわり残る温もりが見えてくるものです。
このお話は、そんな“ふとした日常”の中で生まれる、家族や友人のやさしさの瞬間を切り取った物語。
アスの家の前に、車が静かに停まった。
冬の朝の光が薄く、道路の白線の上をゆらゆらと揺らしている。
車のドアが開き、タケルが降りてきた。
吐く息が白く伸びて、すぐに消えた。
「アス〜、久しぶりだね。シンも。」
タケルが手を差し出すと、弟のシンは目を丸くして、ニタっと笑いハイタッチをした。
ぱちん、と軽い音が響く。
タケルはアスの母親に向き直り、
「こんにちは。」と頭を下げた。
アスの母親はふわりと笑って、
「タケルくん、お久しぶりです。こんにちは。」
と、柔らかく返した。
車の中では、龍賢は電話をしていた。
やがて電話を終え、ドアを開けて降りてくる。
コートの裾が風に揺れ、整った仕草で一礼した。
「ひなこさん、こんにちは。今日はアスを責任を持ってお預かりします。」
「龍賢くん。こんにちは。アスのこと、どうぞよろしくお願いします。」
アスの母親は深く頭を下げた。
その動作はどこか祈りのように静かだった。
龍賢はすぐに目を上げ、微笑んで言う。
「荷物、運びますよ。」
そして両手で買い物袋を受け取り、軽々と家の中へ運んだ。
アスの母親はその後ろ姿を見つめながら、
色素の薄い瞳を細めた。
その瞳の奥に、かすかな寂しさが滲んでいた。
アスはその表情を見逃さなかった。
母親の頬の動き、視線の揺れ。
どこか胸の奥が、きゅっと小さく締まる。
「兄ちゃん、車で待ってて。」
アスはタケルと龍賢に言った。
二人は素直にうなずき、車に戻っていった。
静かになった玄関先で、アスは母親に向き合う。
「母さん、ぼくが買ったもの片付けるから、ゆっくりしてて。」
母親はふわっと笑って、アスの胸に抱きついた。
「ありがとう。」
その声が、冬の風に吸い込まれていく。
弟のシンも真似をして、アスの腰にぎゅっと抱きついた。
アスはその小さな背中に手を添えて、笑った。
その笑顔は、どこか遠い記憶の中の父親に似ていた。
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車の中。
タケルは窓の外を見ながら、玄関先で抱き合うアスと母親をじっと見ていた。
「ねぇ兄ちゃん。」
「ん?」と、龍賢がコンビニで買ったコーヒーを口に運ぶ。
「アスのお母さんって、兄ちゃんと同じ年なんだよね?」
「うん。同い年らしいね。」
龍賢は淡々と答え、視線を窓の外に戻す。
タケルは後部座席から身を乗り出し、
「なんかさ……アスのお母さんって、かわいいよね。」とぽつり。
「兄ちゃんとかお姉さんとかにはないような、別の“かわいさ”がある。」
龍賢は思わず笑い、
「確かに。でも俺は可愛くなくていいけど、露葉に失礼だな。」
「ちがうんだって、お姉さんが可愛くないんじゃなくて。お姉さんは綺麗でクールな感じ。アスのお母さんは、なんていうか……めちゃくちゃキュートな感じ。」
龍賢は鼻で笑いながら言う。
「クールとキュートか。面白いな。……でも、わかる。あの人は不思議な雰囲気があるよな。柔らかくて、ふわふわしてて、放っておけない感じ。」
そして少し間をおいて、
「でもシンはかわいいけど、長男がおかしいけどな。」
タケルはグミを口に放り込み、吹き出すように笑った。
「うん、シンはかわいいけど、アスが息子って……あははっ!」
そのとき、後部座席のドアが静かに開いた。
冷たい風が、笑い声をさらっていく。
「キミのバカ笑い、遠くまで聞こえてたよ。」
アスがそう言って、タケルの隣に座った。
タケルはまだ笑いをこらえながら、「アス〜」と呟く。
アスは無表情で、けれどどこか嬉しそうに、窓の外を見つめた。
「兄ちゃん。荷物、運んでくれてありがとう。」
アスが言うと、龍賢はルームミラー越しに微笑み、
ゆっくりとアクセルを踏んだ。
車は穏やかなエンジン音を残して、
冬の道を静かに進みはじめた。
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抱き合うアスと母親の姿、弟の無邪気な笑い声、
そして友人たちのさりげない気遣い――
日常の中の小さな光は、特別な出来事よりも深く心に残ることがあります。
このお話を通して、冬の柔らかい光と、そっと包むような温かさを感じてもらえたら、と思います。




