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第276話『崩れてく⑩スーパーの朝』

冬の朝は、いつもの景色が少しだけ静かに見えます。

そんな光の中で、アスと弟とお母さんが歩く何でもない一日は、

よく見ると小さな発見や、そっと胸に触れる気持ちで満ちています。

このお話は、その“静かな幸せ”をすくいとった一場面です。

土曜日の朝。

まだ眠たげな陽の光が、曇ったガラス越しにやわらかく差し込んでいた。

母親と弟と、三人でスーパーへ向かう。

弟は手も目も離せないから、こうやって三人で出かけるのがいつもの形になっている。


入口をくぐると、冷えた空気の中に焼きたてのパンの匂いが混ざっていた。

弟は嬉しそうに目を輝かせ、まるで初めて来た場所のように、店内を一周ぐるっと見て回る。

アスは弟の手を握り、歩調を合わせる。

その小さな手のぬくもりと力のかけ方で、弟の気分が少しわかる。


おやつ売り場に着くと、弟は棒付きの飴を見つけた。

しばらく迷って、ひとつだけ取る。

けれどすぐに袋を開けようとするから、アスは静かに声をかける。


「レジでピッしてからね。」

言葉が届かなくても、何度もくり返して言う。

いつか、その声が届く日がくるかもしれないから。


弟は飴を握りしめたまま、ニコニコと陳列棚を見上げている。

商品がきれいに並ぶ棚の列。

その整った秩序に、弟は安心しているようだった。

世界は、規則正しく並んだもので溢れている。

弟は、それが崩れてしまうことを誰よりも嫌う。


買い物を終えて外に出ると、冬の風が少し冷たく感じられた。

アスは弟のリュックからタブレットを取り出し、手渡す。

弟は飴を舐めながら、タブレットに映る「道」の動画を笑いながら見ている。

画面の中の道路が、どこまでも続いている。


「アーくん、ごめんね。たくさん買ったから時間かかっちゃった。」

母親がスーパーの袋を抱えて出てくる。

アスは弟のリュックに迷子防止の紐をつけ、母親から袋を一つ受け取った。


「ありがとう。」

母親は少し息を整えて、優しく笑う。

「荷物を置いたらシンをショートステイに連れて行くけど、一緒に行く?」


アスは紐の長さを直しながら、

「待っとく」と答える。


そのとき、母親のスマホが鳴った。

「はい……あ、うん……暇暇、ありがとう。龍賢くん。冬休み、どこにも連れて行ってあげてないから、きっと喜びます。お願いします。」


通話を終えると、母親がアスを見た。

「今の、兄ちゃんでしょ?」

アスは飴の棒を弟の手から受け取りながら、淡々と答える。

「ありがとうって言って、龍賢くんって言ってた。ボクが知ってる龍賢くんはひとりだけだから。」


母親は少し驚いたように笑って、

「え〜、気づいたのそれで?すごい。」


アスは弟にリンゴジュースを渡しながら、

小さく笑う。


「えっとね、今日の予定は……一、博物館。二、プラネタリウム。そして三、龍賢くんちで花火!」

母親は指を一本ずつ立てて話す。

アスはその三本の指を見つめながら、

「へえ、良かったね。行っておいでよ。」とつぶやいた。


母親は嬉しそうに三本ピースのまま、

「うん。行ってくるね〜。楽しみだなあ〜……って、行くのはお母さんじゃなくてアーくんでしょ!」と笑う。


「へえ、ぼくが行くのか。」

アスはタブレットの音量を少し下げながら言う。


「当たり前でしょ? お母さんが龍賢くんとタケルくんと遊びに行ったら変でしょ!」

母親の薄い栗色の髪が、冬の風にふわりと揺れた。


「いや、別におかしくないよ。タケルとなんて同じレベルだし。保護者もいて安心だよ。よかった。」

「うん、保護者つきで安心〜。って、お母さんも保護者でしょ!」

二人の声が、冬の街に小さく響いた。


アスは軽く笑う。

母親はアスの腕にそっと腕を絡め

「これから迎えに来るって」と言って言葉を続けた。

「アス……冬休みもどこにも連れてってあげられなくて、ごめんね。」


アスはちらりと母親を見て、短く答える。

「出かけてる。」


「昔の話?」と母親が小首をかしげる。

「今も。出かけて歩いてる。スーパーに行ったり、家までの道のりを歩いたり。楽しいよ。」


母親は目を潤ませ、アスとタブレットを見つめる弟を交互に見た。

そして、少し震える声で言った。


「アーくんは本当にいい子。シンも。……お母さん、幸せよ。」


冬の光が、三人の影を細く長く伸ばしていた。

風の中で、弟の笑い声が小さく響く。

その笑い声を包むように、アスはただ静かに目を細めた。



---


家族で過ごす時間は、ときどき当たり前すぎて気づきにくいけれど、

ふとした言葉や仕草の中に、誰かの想いがやさしく滲んでいます。

アスのまなざしも、お母さんの言葉も、弟の笑い声も、

冬の光に揺れる影のように、そっと寄り添いあっていました。

そのあたたかさが、読んでくださったあなたの心にも残りますように。

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