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第275話『崩れてく⑨アスの弟』

冬の光がゆっくりと差し込む教室。

アスと若林さんの、何気ないけれどどこか温度の違う会話の中で、

“普通”や“優しさ”という言葉が静かに揺れだす。


弟の存在が、その境界をそっと照らし出す――


「タケルくん、ずっと休んでるわね。」


そう言いながら若林さんが、スケッチをしているアスの前に腰を下ろした。

冬の陽が淡く差し込む窓辺。

少しだけ開いた窓から、冷たい風が入り込み、若林さんの黒髪を静かに揺らした。


「休んでるね。」

アスは描く手を止めずに、淡々と答える。

鉛筆の芯が紙の上をすべる音だけが、教室の中に細く響いた。


若林さんは足をぶらぶらさせながら、教室の中を見まわす。

「寒いとイライラしてくるのよね。」


その言葉に、アスがふと顔を上げた。

若林さんは小さく息を吐き、思いきり窓を全開にした。

冷たい空気が流れ込み、机の上の紙をふわりとめくる。


教室の隅で遊んでいた男女が声をあげた。

「寒くない?」「げ、若林さん窓開けてるし!」

「寒いのに開けんなよ。」


ざわめき。

若林さんは黙って窓を閉めた。

その仕草を、クラスの誰かが冷たい視線で見つめ、舌打ちをした。


「別の教室で遊ぼー。」

そう言い残して、彼らはドアを乱暴に開け、出て行った。

ドアの閉まる音が、冬の空気の中で響いて消えた。


アスはその背中を見送りながら、淡々とつぶやいた。

「ふ〜ん。いつもわざと怒らせてるの?」


若林さんは一瞬きょとんとしたあと、ふっと笑った。

「“怒”の実験してるだけ。」


アスは口の端を上げた。

「若林さんも怒ってるんだね。」


若林さんは驚いたように目を見開き、そして笑みを戻した。

「アスくんって、ほんと鋭いよね。そう、怒ってる。」


アスは色えんぴつを手に取り、淡い色を重ねながら言った。

「タケルに話したかったんでしょ?」


若林さんは一瞬、息をのんで窓の外に目を向けた。

遠くでチャイムの音が鳴る。

「うん。タケルくんって優しいから、時々話したくなる。」


アスは色えんぴつを止めて、いたずらっぽく笑う。

「ぼくは優しくない?」


若林さんはその笑みを見て、髪を耳にかけながら答えた。

「優しい人は、そんな笑い方しない。」


アスは「そっか」とだけ言い、また紙に視線を落とす。

鉛筆の音が、教室の静けさを取り戻すように流れていった。


しばらくして、若林さんが思い出したように声をかける。

「アスくん、何描いてるの?」


アスは小さく笑った。

「今頃きくんだね。」


若林さんもつられて笑う。

アスはスケッチブックをこちらに向けた。


「食べ物の絵?……へぇ、上手。メニュー表みたい。」

アスは微笑んで答える。

「弟のメニュー表。」


「弟くん?」

若林さんは絵を覗き込みながら、穏やかに言った。

「アスくんって弟いるんだったね。何歳?」


「五歳。」


「へぇ〜、かわいい年頃。

レストランごっこでもするの?保育園で流行ってるとか?」


アスは色えんぴつを揃えながら、少し間を置いて答える。

「うんん。」


若林さんはそれを気にせず、楽しげに話を続ける。

「うちのカフェも、土日は子ども連れが多くてね。

常連さんの五歳くらいの子が“本日のおすすめです”って真似するの。かわいいのよ。

それでね、今度キッズルームを増築するんだって。」


アスはほほえんで言った。

「楽しそう。」


「アスくんも、弟くん連れておいでよ。

いい子ばっかりだから、弟くんも仲良くなるよ。」


「うん。」

アスは短く答え、窓の方へ視線を向けた。

灰色の空。遠くの校舎の屋根に、鳥の影が一瞬止まり、すぐに飛び立つ。


「カフェでレストランごっこ。」

若林さんは微笑みながらつぶやく。


アスはペンケースを閉じながら言った。

「ぼくの弟は話せないから、ごっこはしないかも。」


若林さんの笑みが止まった。

「……え?」


その声は、さっきまでの軽やかさを失っていた。

アスは静かに笑った。


「若林さんは、実験向きの性格じゃないよね。感情的すぎ。」


窓の外で風が強く吹き、カーテンがふわりと膨らむ。

若林さんは何も言わず、その揺れを見つめた。


アスの心の中に、言葉が静かに降りていく。


普通ってなんだろう。

優しいって、なんだろう。


言葉ひとつで、見え方は変わる。

「普通の五歳」と「そうじゃない五歳」。

その境界線は、どこにあるんだろう。


弟の世界は、ぼくたちが思うよりも

ずっと複雑で、

それでいて、

きっと単純なんだ。


弟の見る景色は、

ぼくたちが見る景色よりも

もしかしたら、ずっと真実を映しているのかもしれない。


風が止み、教室は再び静かになった。

窓の外の雲の隙間から、

うすい陽の光が、ゆっくりとアスのスケッチブックを照らした。



---


アスはただ淡々としているようで、

誰よりも世界の“ずれ”や“痛み”を敏感に感じ取っている。


若林さんの何気ない言葉も、

弟の世界への線引きも、

すべては彼にとって、静かな問いになる。


「普通」とは誰の目線か。

「優しさ」とは誰のためのものか。


その答えはまだ出ないけれど、

スケッチブックに落ちた冬の光のように、

アスの中で、確かにゆっくりと形をつくっていく。



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