第273話『崩れてく⑦キミの父親』
夜の静寂に包まれた部屋。
タケルは目を覚ますと、まだ夢の余韻に揺れている。
兄と過ごした一日、笑いや小さな冒険、ぬいぐるみや映画の思い出――
それらが夜の光とともに、ゆっくりと心に染み渡っていく。
その一方で、タケルの胸にはまだ、言葉にできない重みと微かな不安が残っていた。
タケルが目を開けると、また天井だった。
天井の隅に差し込む街灯の光が、淡く揺れている。
外は夜。窓の向こうには、ぼんやりとした街の灯りと、遠くを走る車の音が微かに響いていた。
『起きたか。』
タケルの側で本を読んでいた龍賢は、ページを閉じて微笑んだ。
その瞳は、夜の淡い光をすくうように、ほんのわずかに光っている。
タケルはゆっくりと体を起こし、部屋を見回した。
『え、と…映画行って、レストラン行って、ゲームセンター行った…よね?』
まだ夢の名残が残るような、遠い声だった。
龍賢はタケルを見つめ、少し目を細めて微笑む。
『UFOキャッチャーのぬいぐるみも、車から連れてきたぞ。ウチには合わないけどな。』
そう言って、足元に置かれた巨大な恐竜のぬいぐるみを指さす。
『よかった。』
タケルはホッとしたように言って、恐竜を抱きしめる。
『大丈夫か?』
龍賢が問いかけると、タケルは少しだけ間をおいてから、にこりと笑った。
『全然大丈夫。』
『そうか。』
龍賢は短く答え、窓の外の夜空を見た。
星は少なく、冬の冷たい空気が窓の隙間からわずかに入り込む。
その空気が二人の沈黙を、少しだけ澄んだものに変えた。
『兄ちゃんってさ、普段何してるの?』
タケルはぬいぐるみを抱えたまま、膝をゆらゆらと動かしながら言う。
『普段? 本を読んでる。あとは掃除とか、御経とか…』
龍賢はそう言いながら、本の背を指でなぞる。
タケルは目をまんまるにしてじっと見た。
『あのさ、普段の話だよ?』
龍賢は少し考えたように、視線を本から外し、空を見た。
『“普段”が、わからない。』
タケルは龍賢を見つめる。
夜の光がその輪郭を柔らかく浮かび上がらせ、
まるで、少しずつ形を失っていく像のようだった。
『兄ちゃんってさ、お洒落とかしたことある?』
龍賢は、ふっと笑う。
『あるように見えるか?』
タケルは笑って、窓の外に目を向ける。
街の光が遠くでまたたいて、風に合わせてカーテンがふわりと揺れた。
『兄ちゃんとさ、恋人になった人ってすごいよね…』
龍賢はその言葉を受けて、少しだけ顔を傾けた。
そして、静かに笑う。
『確かに。こんなのと、よく恋人になってくれたよな…結婚までしてくれるって…約束してくれて…。ありがたすぎて…俺は…』
その声には、どこか懐かしさのような影が混じっていた。
タケルはその表情に気づき、ゆっくりと微笑む。
『お姉さんは、見る目があるなぁ〜って思ったんだよ。』
『飾らない兄ちゃんを、好きなお姉さんがぼくは好きだなぁ。』
タケルは立ち上がり、窓の外を見つめた。
ガラスの向こうを、夜風が静かに撫でていく。
龍賢はその背中を見つめながら、
まるで祈るように、低く呟いた。
『ありがとう。』
沈黙が流れる。
街灯の光が、カーテン越しに波のように揺れ、
その光が二人の影を床に落とした。
タケルはゆっくりとソファに腰を下ろし、
ぬいぐるみを胸に抱いたまま、言った。
『兄ちゃん、アスのお父さんって見たことある?』
龍賢は顔を上げる。
タケルの声には、どこか震えがあった。
『兄ちゃんは前、シンを病院に連れて行ったことがあるよね。
そのとき、見た?』
龍賢は少し息を止めた。
あの記憶の扉が、静かに軋むように開いていく。
しかし彼は、すぐに目を伏せて言った。
『……いや、見たことない。』
タケルはぬいぐるみの腕を握りしめ、
その布の感触を確かめるように、手を動かした。
『ぼく……アスのお父さん、見たんだ。』
その言葉は、夜の中に落ちる一粒の石のようだった。
音もなく、静かに深く沈んでいく。
龍賢は驚いた表情のまま、
そっとタケルの隣に腰を下ろし、背中を撫でた。
冷たい夜の空気が、二人の間を通り抜けていく。
街灯の光はまだゆれていたが、
その光は、少しずつ崩れていくように見えた。
沈黙が、部屋の隅々まで広がっていった。
まるで、何かが壊れていく音を、
お互いに聞かないようにしているみたいに。
---
窓の外の街灯、夜風、揺れるカーテン――
すべてが静かに揺れ、沈黙の中で二人を包む。
タケルが見たもの、感じたものの一つひとつが、夜の闇に溶けていくようだ。
兄はその隣で、何も壊れないように、ただそっと寄り添う。
小さな光とぬくもりが、まだ触れられる現実の中で、二人の心をそっとつなぎ止めていた。




