表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
407/449

第273話『崩れてく⑦キミの父親』

夜の静寂に包まれた部屋。

タケルは目を覚ますと、まだ夢の余韻に揺れている。

兄と過ごした一日、笑いや小さな冒険、ぬいぐるみや映画の思い出――

それらが夜の光とともに、ゆっくりと心に染み渡っていく。

その一方で、タケルの胸にはまだ、言葉にできない重みと微かな不安が残っていた。


タケルが目を開けると、また天井だった。

天井の隅に差し込む街灯の光が、淡く揺れている。

外は夜。窓の向こうには、ぼんやりとした街の灯りと、遠くを走る車の音が微かに響いていた。


『起きたか。』

タケルの側で本を読んでいた龍賢は、ページを閉じて微笑んだ。

その瞳は、夜の淡い光をすくうように、ほんのわずかに光っている。


タケルはゆっくりと体を起こし、部屋を見回した。

『え、と…映画行って、レストラン行って、ゲームセンター行った…よね?』

まだ夢の名残が残るような、遠い声だった。


龍賢はタケルを見つめ、少し目を細めて微笑む。

『UFOキャッチャーのぬいぐるみも、車から連れてきたぞ。ウチには合わないけどな。』

そう言って、足元に置かれた巨大な恐竜のぬいぐるみを指さす。


『よかった。』

タケルはホッとしたように言って、恐竜を抱きしめる。

『大丈夫か?』

龍賢が問いかけると、タケルは少しだけ間をおいてから、にこりと笑った。

『全然大丈夫。』


『そうか。』

龍賢は短く答え、窓の外の夜空を見た。

星は少なく、冬の冷たい空気が窓の隙間からわずかに入り込む。

その空気が二人の沈黙を、少しだけ澄んだものに変えた。


『兄ちゃんってさ、普段何してるの?』

タケルはぬいぐるみを抱えたまま、膝をゆらゆらと動かしながら言う。


『普段? 本を読んでる。あとは掃除とか、御経とか…』

龍賢はそう言いながら、本の背を指でなぞる。

タケルは目をまんまるにしてじっと見た。


『あのさ、普段の話だよ?』


龍賢は少し考えたように、視線を本から外し、空を見た。

『“普段”が、わからない。』


タケルは龍賢を見つめる。

夜の光がその輪郭を柔らかく浮かび上がらせ、

まるで、少しずつ形を失っていく像のようだった。


『兄ちゃんってさ、お洒落とかしたことある?』

龍賢は、ふっと笑う。

『あるように見えるか?』


タケルは笑って、窓の外に目を向ける。

街の光が遠くでまたたいて、風に合わせてカーテンがふわりと揺れた。


『兄ちゃんとさ、恋人になった人ってすごいよね…』


龍賢はその言葉を受けて、少しだけ顔を傾けた。

そして、静かに笑う。

『確かに。こんなのと、よく恋人になってくれたよな…結婚までしてくれるって…約束してくれて…。ありがたすぎて…俺は…』


その声には、どこか懐かしさのような影が混じっていた。

タケルはその表情に気づき、ゆっくりと微笑む。


『お姉さんは、見る目があるなぁ〜って思ったんだよ。』

『飾らない兄ちゃんを、好きなお姉さんがぼくは好きだなぁ。』


タケルは立ち上がり、窓の外を見つめた。

ガラスの向こうを、夜風が静かに撫でていく。

龍賢はその背中を見つめながら、

まるで祈るように、低く呟いた。


『ありがとう。』


沈黙が流れる。

街灯の光が、カーテン越しに波のように揺れ、

その光が二人の影を床に落とした。


タケルはゆっくりとソファに腰を下ろし、

ぬいぐるみを胸に抱いたまま、言った。


『兄ちゃん、アスのお父さんって見たことある?』


龍賢は顔を上げる。

タケルの声には、どこか震えがあった。


『兄ちゃんは前、シンを病院に連れて行ったことがあるよね。

そのとき、見た?』


龍賢は少し息を止めた。

あの記憶の扉が、静かに軋むように開いていく。

しかし彼は、すぐに目を伏せて言った。


『……いや、見たことない。』


タケルはぬいぐるみの腕を握りしめ、

その布の感触を確かめるように、手を動かした。


『ぼく……アスのお父さん、見たんだ。』


その言葉は、夜の中に落ちる一粒の石のようだった。

音もなく、静かに深く沈んでいく。


龍賢は驚いた表情のまま、

そっとタケルの隣に腰を下ろし、背中を撫でた。


冷たい夜の空気が、二人の間を通り抜けていく。

街灯の光はまだゆれていたが、

その光は、少しずつ崩れていくように見えた。


沈黙が、部屋の隅々まで広がっていった。

まるで、何かが壊れていく音を、

お互いに聞かないようにしているみたいに。



---


窓の外の街灯、夜風、揺れるカーテン――

すべてが静かに揺れ、沈黙の中で二人を包む。

タケルが見たもの、感じたものの一つひとつが、夜の闇に溶けていくようだ。

兄はその隣で、何も壊れないように、ただそっと寄り添う。

小さな光とぬくもりが、まだ触れられる現実の中で、二人の心をそっとつなぎ止めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ