第272話『崩れてく⑥小さな命』
夕暮れから夜へと移ろう街。
タケルは龍賢の車窓の向こうに沈む光を見つめ、日常の終わりと、これからの始まりを感じている。
映画館やレストラン、ゲームセンター……小さな冒険が、二人の間に静かな時間と優しい笑いを生む夜。
眠りや不安の影を抱えながらも、タケルは少しずつ、安心できる瞬間を重ねていた。
龍賢の車に乗り、タケルは沈む夕日をぼんやりと見つめていた。
窓ガラスの向こうで、街の灯りがひとつ、またひとつと瞬きはじめる。
その光を指先でなぞりながら、ぽつりと呟く。
「もう、今日が終わるね…」
龍賢はハンドルに手を置いたまま、穏やかに笑う。
「今日はこれからだよ。タケルの好きな映画、ちょうどやってる。」
──映画館の暗闇。
スクリーンの光がタケルの頬を照らし、龍賢は横顔をちらりと見る。
小さな肩が時々ぴくりと動いて、笑ったり驚いたりしている。
この瞬間が永遠に続けばいい――そんな願いが、ふと胸をかすめた。
上映が終わると、二人は館のすぐそばの小さなレストランに入った。
温かなランプの下、タケルはストローでオレンジジュースをくるくる回しながら言う。
「やっぱり犯人はクラスメイトだった。先生もあやしかったけど、あやしすぎたから。」
龍賢は水を飲みながら笑った。
「怪しすぎたら犯人じゃないのか。」
「兄ちゃんはサスペンスわかってないね。ぼく、半分でわかったもん。」
「そうか。」龍賢はサラダを口に運びながら微笑む。
タケルが生まれたのは、龍賢が高校生のころだった。
16歳も離れているからか、どうしても“弟”というより“小さな命”に思えてしまう。
泣き虫で、笑い方が不器用で――そんな記憶が、ふと蘇る。
「兄ちゃん聞いてる?笑ってるけど。」
タケルは映画館で買ったパンフレットをめくりながら説明を続けている。
「ごめん。聞いてなかった。タケルが大きくなったなって思って。」
「はぁ〜今さら何それ。もうすぐ五年生だよ?」
龍賢はくすりと笑い、もう5年生か…っと思いつつ言う。
「まだ五年生か。ちっちゃいな。」と。
食後のコーヒーの湯気が、二人の間にゆらりと立ちのぼった。
「5年生は結構大人!
兄ちゃんは次、三五歳くらい?」
タケルはイタズラな顔で言う。
「そうかもな。」
龍賢はしれっと言う。
「はぁ〜なんかさ、兄ちゃんって若くても若くなくても、どうでもいい雰囲気してるよね。五十歳って言っても信じる人いそう。」
その瞬間、ちょうどパフェが運ばれてきて、タケルは手を小さく叩いた。
「かなり失礼だな。」
龍賢は笑いながら足を組み替え、コーヒーを一口。
タケルはスプーンを握り、パフェを大切にすくって口に運ぶ。
その横顔を見つめながら、この笑顔の奥に何故あの“眠り”が潜んでいる?考えずにはいられなかった。
──夜。
ゲームセンターの明かりの中、タケルがUFOキャッチャーで取った特大のぬいぐるみを抱え顔を埋めて笑ってた。
その笑顔が、やけにまぶしかった。
「こんな巨大なの取れるなんて、ぼく天才かも。」
龍賢はクスクス笑う。
「明日、博物館とプラネタリウム行こう。夜は花火しよう。」
龍賢が言うと、タケルは「やったー!」と喜んで跳ねた。
そして、窓の外の夜空を見上げながら、ふと小さく呟いた。
「…家に帰りたくないなぁ。」
龍賢はハンドルを握り直し、横目でタケルを見て微笑む。
「今日と明日、うちに泊まっていいよ。」
タケルは目を輝かせた。
「え、いいの?でも、お父さんとお母さんが、駄目っていいそうだけど……泊まりたい!』
龍賢はチラっとタケルを見て言った。
『連絡してある。いいって』
タケルはぬいぐるみをぎゅっと抱きしめ、シートにもたれかかり『やった〜嬉しい。』と喜んでいた。
街の灯りが遠ざかるたび、タケルの瞼が少しずつ重くなっていく。
ラジオから流れる古いバラードが、夜の静けさと混じりあう。
龍賢はハンドルを握りタケルを見る。
――この夜が、どうか、崩れませんように。
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夜空の下、街の灯りとパフェの光、UFOキャッチャーのぬいぐるみ――
小さな日常の煌めきが、タケルの心にゆっくり積もっていく。
兄との時間、笑い、喜び。
その一つひとつが、まだ小さな命の奥に静かに響き、夜の静寂とともに、消えずに残る記憶となった。
今宵の夜が、どうか壊れずに、彼の胸にやさしく落ち着きますように。




