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第271話『崩れてく⑤即興曲 第3番 Op.90-3』

冬の午後、本堂の静けさに溶け込むピアノの旋律。

タケルは、音と光と香りに包まれながら、兄の存在を改めて感じる。

家族の中で小さく揺れる不安や、深い眠りのこと。

それでも、この瞬間だけは、音がすべてを優しくつなぎとめていた。



微かに聴こえるクラシック。

ゆったりとしながら掴みどころのないメロディが、空気の粒を震わせるように本堂の奥へと染みていく。

線香の香りがまだ薄く漂っていた。

タケルはその香りと音に導かれるように、ゆっくりと歩き出した。


扉を開けると、沈んだ光の中で兄がピアノを弾いていた。

仏壇の金色が指先に反射して、まるで小さな火花のように瞬く。


『なんて曲なの? 綺麗だね……』

タケルは囁くように言った。


兄は鍵盤から目を離さず、

『フランツ・シューベルトの名作、即興曲 第3番 Op.90-3』

と答えた。


音が、まるで雪の粒がひとつずつ落ちてくるみたいに、やさしく流れる。

タケルはしばらく、その指先だけを見ていた。


『兄ちゃん……なんかあったの?』

ピアノの音のすき間でタケルが言う。


『なんかって?』

龍賢は微かに笑いながら、目だけで弟を見る。


『兄ちゃんはさ、いつも“何か”があった時……葬式の後とかに、ピアノ弾きにくるんだよね』

タケルは足をぶらぶらさせながら、夕日に目を向けた。


『はは、よく知ってるな』

龍賢は微笑んで、少しだけ肩をすくめた。


『お姉さんと喧嘩でもした?』

『喧嘩か……してないけど、ちょっとすれ違ってるかもな』

兄の声に、かすかな影が差した。


『兄ちゃん、お姉さんを傷つけたらダメだよ。可哀想だから……』

タケルは夕日を見たまま目を閉じた。


『優しいな。でも、傷つけるように見えるか?』


『ううん、見えない。』

タケルは目を開け、ふわっと笑った。


ピアノの音が止まる。

しばらく沈黙が流れたあと、龍賢がぽつりと言った。


『でも、“何か”は、あったよ。』


『どうしたの?』タケルが心配そうに顔を覗き込む。


『タケルのこと。』


タケルは一瞬、まばたきもせず兄を見た。

『ぼく? なんで?』


龍賢は少し俯いて、淡い声で言う。

『……眠くなって、また何か見たんじゃないか?』


タケルは目を逸らし、苦笑するように呟いた。

『はぁ〜……お父さん達から聞いたんでしょ?』


龍賢は何も言わず、ただ弟を見つめていた。

『聞いたよ。凄く心配してた。俺も心配だよ。』

そう言ってまた、シューベルトの旋律を弾き始める。


静かな本堂に、音だけが流れた。

仏壇の灯がゆらゆらと揺れ、影が壁を這う。

その中でタケルがぽつりと呟いた。


『兄ちゃん……ぼく、また遊びに行きたい。博物館とか映画館とか、ゲームセンターとか……』


『ん。いいね。他は?』

『ドライブしたり、パフェ食べたり、プラネタリウムも行きたいな。』

『うん。1日じゃまわれないな。他は?』

『花火がしたい。』


『冬に花火……ロマンチックだな。』

龍賢は微笑んで、ピアノの蓋をゆっくり閉じた。


『全部するの、時間がかかるから早く家出ないとな。』

立ち上がった兄の言葉に、タケルの瞳がぱっと明るくなる。


『え?今から行くの?』

『うん。着替えて、荷物を準備しておいで。』


龍賢の声は静かであたたかかった。

タケルは笑顔を浮かべて、嬉しそうに自分の部屋へ駆け出していく。


廊下の先で、夕日の光がタケルの背中を照らしていた。

その姿が一瞬、金色の塵のようにかすんで見えた。


龍賢はしばらくその背中を見つめていた。


ピアノの上の蝋燭の炎が、かすかに揺れた。

外では、雪が降り始めていた。



夕日の光に照らされ、タケルの笑顔がふわりと浮かぶ。

兄の優しさと時間の余白が、静かに日常を紡いでいく。

雪の舞う本堂の中、音と影の間に、ほんの少しの希望が揺れる。

小さな願いが、今日という日の記憶に、そっと刻まれていった。

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