第270話『崩れてく④誰かの弱点』
冬の午後、居間の静けさの中に、重い空気が漂っていた。
父の疲れた顔、沈黙の中で膨らむ不安。
タケルが抱える深い眠りの謎が、家族の間に小さな波紋を広げる。
龍賢は、言葉にならない気持ちと向き合いながら、
静かに覚悟を決めようとしていた。
インターフォンが鳴った。
扉を開けると、父親が立っていた。
潮風に少し乱れた髪、どこか疲れた表情。
「続けて来るなんて、珍しいな。なに?」
龍賢は冷めた声で言った。
父の姿に、どこかしら違和感を覚える。
目の奥の光が、まるで遠くに置き去りにされたように見えた。
ため息をつき、「入って」とだけ言う。
父は小さくうなずき、靴を脱いで上がった。
「お邪魔します」と珍しく口にして。
居間の窓の外では、木々の枝が風に揺れ、
ガラス越しに午後の光がゆらめいていた。
龍賢が湯気の立つ湯呑を手渡すと、父は静かに受け取り、
少しだけ笑ったような顔で「ありがとう」と言った。
ペンを走らせる音だけが響く。
時計の針が、やけにゆっくりと進む。
しばらくの沈黙のあと、父が小さく口を開いた。
「……タケルが、また倒れて」
その一言で、龍賢の手が止まった。
インクが紙の端に小さな黒い点を作る。
「それで?」
父は息を吐きながら、
「古い裏路地で倒れてたところを、散歩中の人が見つけてくれてな……」
と続けた。
「タケルは大丈夫なの?」
龍賢の声には、わずかに焦りが混じる。
父は沈黙したまま、お茶の表面を見つめた。
「見つかった時、体中アザと傷だらけで……二日間眠り続けた。
やっと目を覚まして、家に帰ってきたけど……」
「けど?」
「けど、ご飯も食べない。一言も話さなさん」
龍賢は立てた膝に腕をのせ、父をじっと見た。
光の少ない部屋に、二人の影が薄く重なる。
反りの合わない親子。
顔を合わせれば衝突しかしなかった。
だが、タケルの話になると、父は急に脆くなる。
タケルがこの人の「生きる理由」なのだと、龍賢は知っていた。
「俺も母さんも、どう接していいかわからない。
お前なら……タケルも、いろいろ話してくれるかもしれない。」
父はゆっくりと体ごとこちらに向き、
床に手をついて頭を下げるように言った。
「頼む。龍賢、助けてくれ」
言葉の途中で声が震えた。
「お前が俺を嫌ってることはわかっとる。
でも、タケルのことは……お前のほうが、わかってやれる。
タケルを元気にしてやりたい。頼む」
沈黙。
窓の外では風がカーテンをわずかに揺らしている。
龍賢はしばらく黙ったまま、
父の背中を見つめ、それから小さく息を吐いた。
「……わかった」
誰にでも弱点がある。
愛することが、弱点のような人もいる。
哀れで、そして少し、羨ましいほどに。
タケルは何を見たのか。
あの純粋な眼差しの奥で、何を見つめていたのか。
タケルは幼いころから、不意に訪れる深い眠りに悩まされていた。
過眠と夢遊。
まるで別の世界へ呼ばれるように。
永遠に目を覚まさないのではないかと思うほど、
静かな眠りの底へ沈んでいくことがある。
その優しさが、まるで重力のように――
何かに引きずられていく。
タケルの心は、
この世界の「境界」を知ってしまったのかもしれない。
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愛するものが弱さになりうる瞬間。
守りたいと思う気持ちが、言葉よりも深く、沈黙の中に響く。
タケルの目が見た世界、心が触れた境界。
その微かな影を、龍賢はただ受け止める。
そして、この静かな午後の光の中で、少しずつ前へと歩み始めるのだった。




