第269話『崩れてく③夢と現実の間』
目覚めた世界は、いつもと違う匂いと光に満ちていた。
痛みと静寂の中で、タケルは自分の身体と向き合い、
失われた時間の痕跡をそっと辿る。
まだ遠くに残る不安と、家族の優しさに包まれながら、
冬の光はゆっくりと部屋を満たしていく。
目を開けると、見慣れない天井があった。
白い光が静かに広がり、薬品の匂いが空気を支配している。
ピッ、ピッ、と機械の音が一定のリズムで響いていた。
タケルはぼんやりと天井を見つめたまま、体を起こそうとする。
けれど、痛みが走り、息を呑んだ。
『タケル!』
母親の声が飛んできた。
少し驚いて目を向けると、そこにいた母親は髪をひとつに束ね、目の下には深い隈があった。
泣きはらしたような顔で、それでも笑おうとしている。
『……良かった……タケル……目を覚ましてくれた』
母親は涙をこぼしながら、タケルの頭を撫でた。
手のひらが少し震えていた。
タケルはただ、ぼうっとその顔を見つめていた。
どこかで夢の続きのようにも感じる。
母親はナースコールを押し、医師と看護師が入ってくると、静かに部屋を出ていった。
治療を受けている間に、ふと視線を落とすと――
腕も足も、あざと傷の模様で覆われていた。
絵の具のようにまだらな痕が、自分の身体に描かれている。
タケルは目を閉じ、少しずつ記憶を辿りはじめた。
……そうだ。
出かけるのを禁止されて、勝手に勝手口から出た。
風が気持ちよくて、道の光がきれいで、空気がすき通っていて……。
アスの家に行く途中、いつも通らない裏路地を抜けた。
――そのとき、誰かが……。
そこから先の記憶が、ふっと白く切れた。
その空白の中で、何か大切な音が消えていった気がした。
『タケル!』
今度は父親の声。
勢いよくドアが開く音。
『タケル、よかった……目を覚ましてくれた!』
いつもふざけてる父親の目が、真っ赤に濡れている。
タケルの手をぎゅっと握りしめるその手が、少し震えていた。
――お母さん、お父さん……。
タケルの胸の奥に、ゆっくりと痛みが広がった。
言葉が浮かばないまま、ただまぶたを閉じた。
* * *
数日後。
退院の日。
家に戻ったタケルを迎えた両親は、いつもよりずっと優しかった。
何も責めず、何も聞かなかった。
それが、かえって苦しかった。
静かな優しさの中に、言葉にできない悲しみが混じっている気がした。
いつの間にか、新学期も始まっていた。
タケルはまだ学校へ行かず、家で過ごしていた。
縁側に座ると、遠くから子どもたちの笑い声が聞こえてくる。
それが、まるで別の世界の音のように感じた。
懐かしいような、少し寂しいような。
その境界で、タケルはぼんやりと空を見ていた。
雪が舞いはじめる。
静かに、庭の石や木の枝に降り積もっていく。
『タケル、どこか行きたいところない?』
母親がそっと声をかけてきた。
タケルは首を横に振る。
『お父さんがな、タケルの好きなところ、どこでも連れてってやるぞ』
父親が笑う。
けれど、タケルはまた小さく首を横に振った。
二人は顔を見合わせ、ため息をひとつ。
そのやりとりが、なぜか遠くから聞こえるようだった。
夢と現実のあいだを、ふわふわと漂っているような感覚。
外の光が白くにじんで、時間の輪郭が溶けていく。
アザが、まだ少し痛んだ。
けれどその痛みさえも、どこか遠い世界の出来事のように感じた。
――タケルは、指先で縁側の木目をなぞった。
冷たい感触。
その下で、冬の陽がゆっくり動いている。
世界は、静かに息をしていた。
痛みも、傷跡も、世界の一部としてただ在る。
目に見えるもの、耳に届くもの――
すべてが、静かに息づく現実の輪郭を描く。
タケルは縁側に座り、雪の光を感じながら、
夢と現実の間の柔らかな時間を、そっと受け止めていた。




