第267話『崩れてく①扉の先』
――それは、冬の朝のこと。
いつもと同じような食卓の風景。
けれど、ほんの少しの「違和感」は、
ゆっくりとタケルの世界の輪郭を崩しはじめていた。
目に見えない何かに導かれるように、
彼は“外”へ、一歩を踏み出してしまう――。
---
『お母さん、今日はアスと遊んでいい?』
もうすぐ冬休みも終わろうとしているある朝。
湯気の立つ味噌汁とトーストの匂いがまざりあう食卓で、タケルが母親に尋ねた。
母親はトーストをかじりながら、
『タケル、体調そんなによくないでしょ?』と眉を寄せた。
父親は納豆をかき混ぜながら、
『タケル、家にいなさい』と短く言った。
タケルは目玉焼きにソースを垂らし、黄身を箸でつつきながら不満そうに言う。
『えー、もうすぐ休み終わるよ……ぼく体調悪くないのになんで!』
母親はジャムの瓶の蓋をぎゅっと握り、
『だーめ』と言いながら、ようやく開けてトーストにたっぷりと塗った。
タケルはたまごをぐるぐるとかき混ぜながら、
『なんでよー!お父さんいいでしょ?ねーお父さん!お父さんはぼくの味方だよね?』と必死に訴える。
父親は納豆ご飯をゆっくりと口に運び、
『かわいいけど……味方だけど、だーめ』と、ため息まじりに笑った。
タケルは肘をついてイライラしながら言い返す。
『何日も家から出てないんだよ!宿題も終わったし、冬休みももうすぐ終わるのに……アスと遊ぶなってなにそれ!そんな風にぼくを縛りつけたら、二人とも……どうなるか覚えててね!』
母親と父親は顔を見合わせて、
『はいは〜い、覚えておきま〜す』とハモった。
タケルはむっとして、二人を睨む。
そのまま少しの沈黙。
テレビの中から天気予報の声が聞こえる。「午後から雪になるでしょう」。
母親が、ふっと表情をやわらげて言った。
『タケル。意地悪で言ってるんじゃないのよ?アスくんと遊ぶななんて言ってない。ただね、タケル……最近また突然眠っちゃうことがあるでしょ?お母さんもお父さんも心配なの』
タケルは箸を止め、少しだけ目を伏せた。
その目には、どこか遠くを見つめるような光があった。
静かにご飯を食べ始める。
――二日前のこと。
本堂の前を箒で掃いていた時、気づいたら布団の中だった。
父親の話によると、本堂の前で倒れていたタケルを見つけて、部屋まで運んだらしい。
『あの時な、タケルが頭から血を流して倒れてて……お父さん、本当にびっくりして足がもつれて階段から落ちて……這ってタケルのところまで行ったんだぞ。』
父親は真顔で言う。
『お父さんはな、タケルがいなくなったら何も無い。誰もいないんだ。』
タケルはちびちびとご飯を食べながら言った。
『ちょっと頭打っただけだよ。眠くなって休んでただけ。心配しすぎだって。てかお母さんも兄ちゃんもじーちゃんもいるでしょ?』
父親は苦笑いして、少しだけ肩を落とした。
『あのな、タケル……他のやつはタケルのオマケみたいなもんだぞ。』
母親はヨーグルトをすくいながら笑う。
『あんたに“オマケ”言われると腹立つわ〜』と。
二人のいつもの口喧嘩に、タケルはあきれたように息を吐く。
食器を持って立ち上がり、台所へ運ぶ。
その時――。
台所の勝手口が、カタ、と鳴って少しだけ開いた。
外の冷たい風が、すうっと入り込み、タケルの頬をなでる。
一瞬、世界が静まったように感じた。
外の光は淡く、白く、雪の匂いを含んでいる。
タケルは食器を流しに置き、そっと勝手口の方を見た。
風が止み、カーテンがわずかに揺れた。
――気づいたら、タケルの足はもう外に出ていた。
靴をつっかけ、吐く息が白くなった。
境内の方からは、カラスの声がひとつ。
そのまま細い坂道を下り、アスの家へ向かって歩き出した。
静かな日常の中にひそむ「ひび割れ」は、
いつのまにか広がっていく。
タケルが開けた勝手口は、
単なる出口ではなく、
現実と夢、記憶と幻のあわいをつなぐ“扉”だったのかもしれない。
これまで守られていた日々が、少しずつ崩れていく。
その崩壊の先にあるのは、恐れか、真実か――
冬の白い光の中で、物語は新しい段階へと進んでいく。




