第266話『世界が揺れた時』
――冬の午後、眠りと目覚めのあいだ。
タケルが見たのは夢だったのか、それとも……。
アスの家に漂う静けさの中で、
“触れてはいけないもの”の気配がゆっくりと形を取っていく。
現実と夢の境目がほどけるとき、
心の奥の「知らない方がいい世界」が顔をのぞかせる――。
いつの間に眠ってしまったのだろう。
目を覚ますと、部屋にはアスと弟の姿はなかった。
アスの家のリビング。
カーテンの隙間から漏れる冬の光が、薄く床を照らしている。
静かすぎて、時計の針の音が遠くで雪の粒みたいに響いていた。
隣の部屋の扉が、少しだけ開いている。
そこから淡い光がこぼれていた。
……誰か、いる。
体を起こそうとしたが、動かない。
布団の上に何か重い空気がかかっているみたいだった。
部屋の奥から、声がした。
女の人の声と、掠れた低い男の声。
(アスのお母さん……? お父さん?)
言葉の意味は聞き取れない。
でも、その音の震えの奥に、
悲しみがふくらんでいくのがわかった。
すすり泣きに変わり、
やがて足音が遠ざかる。
残されたのは、男の息の音だけ。
扉の隙間から、影が動く。
次の瞬間――
バン、と音を立てて扉が開いた。
痩せすぎた男が立っていた。
漂白したような顔。
目の奥は空洞のように暗く、唇だけがわずかに動いた。
タケルは声を出そうとした。
けれど喉が凍りついたようで、音にならなかった。
男がゆっくりと近づいてくる。
しゃがみ込み、タケルの顔を覗き込む。
乾いた手が自分の頭を撫でる。
抜けた髪がふわりと床に落ちた。
「……起きてるんだろ?」
その声は、どこか遠い場所から届くみたいだった。
男はさらに顔を寄せ、タケルの耳元で何かを囁いた。
冷たい息が耳の奥に沈んでいく感覚が残った。
そのとき、小さな手が男の腕を掴んだ。
弟だった。
床に並べたコードを男が踏んでいる。
弟は無表情のまま、男の足を避けさせ、
また一本ずつコードを並べ直す。
小さな車を走らせる。
コードの上を、床の上を、
やがてタケルの体の上を通って――
「……あ=1、い=2、う=3……」
車がタケルの頬をかすめたとき、
弟が小さく言った。
「……いく」
——。
薄い光がまぶたを透かしていた。
タケルはゆっくり目を開けた。
リビングの中。
アスが覗き込み、隣で弟が泣いていた。
「……うなされてた」
アスの声は、どこか遠くから聞こえるようだった。タケルは体を起こす。アスがタケルの背中と弟の頭を撫でる。
「怖い夢を見た。
白い顔の人がいた……ガリガリに痩せな人で、髪が抜けて……」
アスの指が一瞬、止まる。
その指先がかすかに震えた。
「……ごめん」
静かにそう言って、アスは目を伏せた。
睫毛の影が頬に落ちる。
何かを知っているような、
でも言わないまま閉じ込めるような沈黙だった。
窓の外では、雪が舞っていた。
音もなく、ゆっくりと降りてくる。
風のない空の下、世界は静かに沈んでいく。
インターフォンが鳴る。
タケルの母が迎えに来て、
怯えるタケルを連れて帰った。
玄関の扉が閉まると、
アスはその場に立ったまま、
しばらく動かなかった。
冬の光の中、
彼の影だけが床に長く伸びていた。
——あの夢の中で、
男が耳元で囁いた言葉。
『……アス』って。
タケルは、それをアスに言わなかった。
言ってはいけない気がした。
知らないほうがいいことが、
この世界には確かにある――
触れないほうがいいことがある…
そう思いながら、
外の白い光を、ただ見つめていた。
---
光のない夢と、音のない現実。
その境界はいつも、白く、あいまいで、静かだ。
タケルが見た“白い顔の人”は、
もしかしたらアスの心の奥に沈んでいる記憶のかたちだったのかもしれない。
雪が降り続けるように、
人の心にも、決して触れてはいけない静かな場所がある。
そこに光が届くとき――
世界はほんの少しだけ、痛みをともなって美しくなる。




