第42話「いないことに、なれていく」
いっしょにいるのがあたりまえだった人が、ある日いなくなると、心にポッカリ穴があいたように感じる。でも、その穴さえも、いつのまにか土でうまって、なかったみたいになっていく。――それって、かなしいことなのかな? それとも、ぼくらが強いってことなのかな?
アスは、まだ帰ってこなかった。
「一週間、田舎に帰省してくる」
そう言ってから、もう三週間がすぎた。連絡は、ぽつりぽつりと来るけれど、電話もあまりしない。メールはたまに、おかしな写真が一枚だけ届いたりする。ぬいぐるみが田んぼで寝てる写真とか、石に目玉を描いて「知性」と名づけたものとか。
最初の一週間は、アスのことばかり考えていた。
タケルは毎朝、アスのいる教室を空想し、空席をちらりと見てはため息をついた。ノートのすみに「うちゅうかんさつノート」と書いて、ペンを止めて、やめた。
でも、二週間がすぎるころには、いつもの友だちとふざけて笑った。三週間目には、アスのことを考えない日も出てきた。
「……なれてきたのかもな」
帰り道、ポケットに手をつっこみながら、タケルはそう思った。
いつもの道。風。信号の点滅。
なにも変わらない。
前にアスの家に泊まったときのことを思い出した。
夜、静かな台所の奥で、アスの弟が小さな桶の水を手ですくって、じっと見つめていた。
まるで「言葉になる前の世界」に触れているみたいだった。
タケルは少しだけ、弟の気持ちがわかるような気がした。
言葉も名前もない世界の中では、時間さえ、止まって見えるのかもしれない。
そうして三週間と一日目。
家に帰って玄関を開けたら、知らない靴があった。
「ただいまー」
台所から、にぎやかな声。
アスが、兄ちゃんといっしょに夕ごはんを食べていた。
「え? いつ帰ってきたの!?」
「きのう。たけるが学校に行ったあと、帰ってきた。報告は、まあ、してない」
「……なんだよそれ!」
「報告する義務は、ないからね」
アスは、なにもなかったように箸をすすす、と動かした。
「……ちょっと心配したんだぞ」
「うん。ぼくは、心配されることにあまり慣れていない」
アスはちらりとタケルを見て、言った。
「でもね、いないことに慣れてしまうのって、ちょっとこわいね」
「……どうして?」
「人間は、いないものに順応する。
いない時間が長くなるほど、その人のかたちが、心の中からすこしずつぼやけていく。
だけど、それでも世界はちゃんとまわる。
ソクラテスは言ってた。――『自分自身を知ることは、世界を知る第一歩だ』って」
「それ、今関係ある?」
「あるよ。
『いないことに慣れてしまう自分』を知ることは、自分自身の正体を知ることにつながる。
それって、世界の観察でもある。
……たけるは、自分の“変化”に気づいた?」
タケルは、何も言わず、自分の箸の先を見た。
そのあと、ぽつりとつぶやいた。
「……ちょっとだけ、さみしかった」
アスは何も言わず、にこっと笑った。
その笑顔を見たタケルは、ようやく「いつもの世界」が戻ってきた気がした。
人はいないことに、少しずつ慣れていく。
でもそれは、「忘れること」とは、ちがうのかもしれません。
ソクラテスの言葉をかりれば――自分の内に何が生まれ、何が消えていくのかを見つめることが、ほんとうの“知る”につながっているのかもしれません。
そして、そんなふうに世界を見つめる時間こそが、ぼくらの「うちゅうかんさつノート」に書きこまれていくのです。




