第265話『真実は雪のように…』
――冬休みの午後。
アスの家に流れる静かな時間の中で、タケルはふと「真実とは何か」を考えます。
ヘーゲルの言葉「真実とは、全体である」をめぐって交わされるふたりの会話。
雪の降りはじめた午後、限られた部屋の中に、
“世界がひとつである”という感覚がゆっくりと溶け込んでいきます。
冬休みのある日。
アスの家で過ごす午後の光は、静かに傾いていた。
弟は床いっぱいにコードを並べながら、一本ずつ位置を確かめている。
タケルはその様子を見ているうちに、だんだんまぶたが重くなり、ソファにゴロンと横になった。
アスは近くで洗濯物を丁寧に畳んでいる。
部屋の中には、ヒーターの小さな音と、洗剤の淡い香りが漂っていた。
「アス、そういえば今日お母さんは?」
タケルが天井を見たまま訊ねる。
「久しぶりに朝から出かけてるね。」
アスは淡々と答え、畳んだシャツをそっと積み上げた。
タケルは手元のミニカーのタイヤをくるくる回しながら言った。
「だから今日はシンをアスがずっと見てるんだね。」
「そう。近所で仲いい麻生さんが、時々様子を見に来てくれる。」
「あ〜サバサバしたおばちゃんね。それならお母さんも安心して出かけられるね。」
弟がタケルのミニカーに気づいて、ちょこんとタケルの上に乗っかり、車を奪い返す。
タケルはくすくす笑って弟の頭を撫でた。
「アス……お父さんは?」
アスの手が止まり、窓の外を見る。
曇り空の下、電線の影がゆらりと揺れていた。
「前も聞いたけど、お父さん見たことないから気になっちゃった。」
タケルは弟をこちょこちょしながら言う。
「父さんは遠くに住んでるから、滅多に会わない。」
「そっか、アスもアスのお母さんも寂しい思いしてるね。
ぼくはお父さん好きだから、離れて暮らしてたら寂しいな。」
外を見ていたアスが、ゆっくりとタケルの方を見て、
「うん。そうだね」
と短く言って目を伏せた。
その声は小さかったけれど、どこか遠くの方へ消えていくようで、
タケルはその空気に、何か言っちゃいけないものを感じた。
お腹の上に乗っていた弟をそっとソファの下へ降ろし、体を起こす。
「えーと、さっき話してたヘーゲルって人、どこで知ったの?
なんかすごくカッコよかった。」
アスは目を伏せたまま、ふっと笑った。
「図書館で読んだ。」
「もっと聴かせて。」
アスは洗濯物の山を見つめたまま、少し間をおいて口を開く。
「“真実とは、全体である”って言ってた。」
タケルは首を傾げる。
「真実は全体?どういうこと?」
アスは窓の外の雲を見上げた。
「たとえば……雪の結晶だけを見ても、冬のことはわからない。
でも風や空気や時間、ぜんぶを合わせて感じたときに、
“ああ、冬だ”って思うでしょ。
たぶんヘーゲルが言いたかったのは、そういうこと。」
タケルは黙って、窓の向こうを見た。
いつの間にか空が薄く光っていて、遠くの屋根の上に、白い欠片のようなものがちらちら舞っていた。
「じゃあ、ぼくらが見てるこの世界も……どこかでつながってるのかな。」
「うん。きっと全部、ひとつの“全体”の中にある。」
アスはそう言って、洗濯物を畳む手を止めた。
その指先が、ほんのわずかに震えていた。
弟はまだ床にしゃがみこんで、一本ずつコードを並べている。
その姿を見つめるアスの横顔は、どこか遠い場所を見ているようだった。
タケルはふとつぶやいた。
「真実って、雪みたいだね。」
「どうして?」
「どれも同じに見えて、ほんとは全部ちがう形してる。
でも、落ちたらすぐ溶けちゃう。」
アスは少しだけ笑って、うなずいた。
「それ、けっこう哲学だね。」
窓の外で、またひとつ、雪が光った。
音のない世界が、少しずつやわらかく沈んでいく。
タケルはその光の中で、
“全体”という言葉の意味が、少しだけわかった気がした。
それは、アスの静けさの奥にも、弟の小さな手の中にも、
すでにひとつに溶けているものだった。
雪の結晶のように、
それぞれ違う形をしているものが、ひとつに溶けていく――。
アスとタケルが見つめたのは、
そんな“全体”の中で呼吸する世界でした。
すべてはつながり、ひとつの真実をかたどっている。
その静けさの中で、彼らの心にもまた、
小さな雪が降り積もっていました。




