表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
399/451

第265話『真実は雪のように…』

――冬休みの午後。

アスの家に流れる静かな時間の中で、タケルはふと「真実とは何か」を考えます。

ヘーゲルの言葉「真実とは、全体である」をめぐって交わされるふたりの会話。

雪の降りはじめた午後、限られた部屋の中に、

“世界がひとつである”という感覚がゆっくりと溶け込んでいきます。



冬休みのある日。

アスの家で過ごす午後の光は、静かに傾いていた。


弟は床いっぱいにコードを並べながら、一本ずつ位置を確かめている。

タケルはその様子を見ているうちに、だんだんまぶたが重くなり、ソファにゴロンと横になった。

アスは近くで洗濯物を丁寧に畳んでいる。

部屋の中には、ヒーターの小さな音と、洗剤の淡い香りが漂っていた。


「アス、そういえば今日お母さんは?」

タケルが天井を見たまま訊ねる。


「久しぶりに朝から出かけてるね。」

アスは淡々と答え、畳んだシャツをそっと積み上げた。


タケルは手元のミニカーのタイヤをくるくる回しながら言った。

「だから今日はシンをアスがずっと見てるんだね。」


「そう。近所で仲いい麻生さんが、時々様子を見に来てくれる。」


「あ〜サバサバしたおばちゃんね。それならお母さんも安心して出かけられるね。」


弟がタケルのミニカーに気づいて、ちょこんとタケルの上に乗っかり、車を奪い返す。

タケルはくすくす笑って弟の頭を撫でた。


「アス……お父さんは?」


アスの手が止まり、窓の外を見る。

曇り空の下、電線の影がゆらりと揺れていた。


「前も聞いたけど、お父さん見たことないから気になっちゃった。」

タケルは弟をこちょこちょしながら言う。


「父さんは遠くに住んでるから、滅多に会わない。」


「そっか、アスもアスのお母さんも寂しい思いしてるね。

ぼくはお父さん好きだから、離れて暮らしてたら寂しいな。」


外を見ていたアスが、ゆっくりとタケルの方を見て、

「うん。そうだね」

と短く言って目を伏せた。


その声は小さかったけれど、どこか遠くの方へ消えていくようで、

タケルはその空気に、何か言っちゃいけないものを感じた。

お腹の上に乗っていた弟をそっとソファの下へ降ろし、体を起こす。


「えーと、さっき話してたヘーゲルって人、どこで知ったの?

なんかすごくカッコよかった。」


アスは目を伏せたまま、ふっと笑った。

「図書館で読んだ。」


「もっと聴かせて。」


アスは洗濯物の山を見つめたまま、少し間をおいて口を開く。

「“真実とは、全体である”って言ってた。」


タケルは首を傾げる。

「真実は全体?どういうこと?」


アスは窓の外の雲を見上げた。

「たとえば……雪の結晶だけを見ても、冬のことはわからない。

でも風や空気や時間、ぜんぶを合わせて感じたときに、

“ああ、冬だ”って思うでしょ。

たぶんヘーゲルが言いたかったのは、そういうこと。」


タケルは黙って、窓の向こうを見た。

いつの間にか空が薄く光っていて、遠くの屋根の上に、白い欠片のようなものがちらちら舞っていた。


「じゃあ、ぼくらが見てるこの世界も……どこかでつながってるのかな。」


「うん。きっと全部、ひとつの“全体”の中にある。」


アスはそう言って、洗濯物を畳む手を止めた。

その指先が、ほんのわずかに震えていた。

弟はまだ床にしゃがみこんで、一本ずつコードを並べている。

その姿を見つめるアスの横顔は、どこか遠い場所を見ているようだった。


タケルはふとつぶやいた。

「真実って、雪みたいだね。」


「どうして?」


「どれも同じに見えて、ほんとは全部ちがう形してる。

でも、落ちたらすぐ溶けちゃう。」


アスは少しだけ笑って、うなずいた。

「それ、けっこう哲学だね。」


窓の外で、またひとつ、雪が光った。

音のない世界が、少しずつやわらかく沈んでいく。


タケルはその光の中で、

“全体”という言葉の意味が、少しだけわかった気がした。

それは、アスの静けさの奥にも、弟の小さな手の中にも、

すでにひとつに溶けているものだった。



雪の結晶のように、

それぞれ違う形をしているものが、ひとつに溶けていく――。

アスとタケルが見つめたのは、

そんな“全体”の中で呼吸する世界でした。

すべてはつながり、ひとつの真実をかたどっている。

その静けさの中で、彼らの心にもまた、

小さな雪が降り積もっていました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ