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第260話『誰かを想う事⑥タケルの父』

父親の内面と、親子の距離感、過去と現在の交錯が静かに描かれます。


タケルの無防備な寝顔、露葉の自然で優しい所作、

そして父親が抱える記憶と感情――

車内という小さな空間に、時間と心の層が重なる瞬間を映しています。


物理的な距離と心理的な距離、沈黙の間の温度が、

父と子、そして父と亡き兄との関係性を透かし見せる回です。



車はゆっくりと街路を滑るように走っていた。走り出して5分もしないうちに、タケルは小さな寝息を立てて窓にもたれかかり、体をゆだねて眠ってしまった。父親はルームミラー越しにその姿を確かめ、タケルを襲う深い眠りへの心配とあまりにも素直で無防備な様子に、思わず胸が緩む。自分の子とは思えないほどかわいらしい。


その隣に座る露葉が、そっとタオルケットを取り上げ、タケルの肩に掛けてやった。細やかな動作はためらいがなく、自然で優しかった。


「ありがとう、露葉さん」


父親が運転席から声をかけると、露葉は一瞬だけ目を上げ、ミラー越しに控えめな微笑みを見せた。そして軽く頭を振り、窓の外へと視線を戻した。夕風が金木犀の香りを運び込み、その香りが車内に淡く満ちる。


整った顔立ちに透明感があり、静かな佇まいは、車内のざわめきを吸い取るように穏やかだった。どこから龍賢が連れてきたのか、不思議な雰囲気を纏っている。余白がある。沈黙の間に、彼女の心の深みと距離感が滲む。その間を持つ様子に、父親はハンドルを握る手をふと緩める。


「露葉さん、さっきはすみません」


父親の声に、露葉は顔を上げる。

「いいえ、すみません」

なぜか謝り返す声。その柔らかさに、父親の胸の奥がわずかに揺れた。


「露葉さんは何もしてませんよ。…親子でみっともない姿をお見せして」


露葉は一度、ルームミラーに視線を落とし、すぐに目を逸らして小さく微笑んだ。

「いいえ、大丈夫です」


その笑顔とともに、金木犀の香りが父親を遠い記憶へ連れていく。


昔、

年の離れた兄が龍賢の今住む寺に住んでいた。

若くして亡くなった兄。

――円。慈愛に満ち、誰もが好意を抱かずにはいられない雰囲気を持つ人だった。だが今、その兄の面影を龍賢に重ねるたび、心の奥で苛立ちが芽生える。龍賢が悪いわけではない。けれど、兄の顔で語りかけてくるように見えて、愛おしさと恐れがないまぜになり、胸が締め付けられる。会いたさと怖さ、その両方が忘れられない。

…俺があの時…死んでしまえばよかった…


「タケルくんは、お母さんによく似てますね」


不意に露葉が言った。父親はハッとし、ミラー越しに眠る息子を見つめた。

「あ…あぁ。よく似てる」


笑うと、露葉も微笑み返す。

「お父さんにも似てますね」


少し目を伏せてそう言った声に、胸がぎゅっとなる。


沈黙が車内に落ちる。窓の外では夕方の光が建物の影を伸ばし、景色を金色に染めていく。その光と影の間で、露葉の存在がふっと際立つ。若いのに余白を持つ。沈黙の間が詩のように漂う。


父親は思う。――タケルの友達、アスくんにも同じ間を感じた。だから、似ていなくても、同じような人を連れてくる息子たちの姿に、懐かしさと心地よさを覚えるのだろう。


結局、兄弟だから似ているのではなく、親子だから同じものに惹かれるのかもしれない。円兄さんもまた、同じような間を持っていた。香りに誘われ、過去と今が重なり合う。父親は静かにハンドルを握り直し、ゆるやかな道を走り続けた。



---


この話は、親子関係と記憶の重なり、

人が誰に惹かれ、誰を思い出すのかという静かな心理を描くことに重点を置きました。


タケルの存在が父親の胸に柔らかく入り込み、

露葉の佇まいがさらに空間の余白を際立たせます。


「円」のような存在――過去の兄、そして今の息子たちが、

時間を超えて父親の心に微妙な振動を起こす。


金木犀の香りに誘われる記憶と、今ここにある光景が交差し、

静かで温かな、しかしわずかに切ない余韻を残す物語となっています。



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