第259話『誰かを想う事⑤』
言葉と沈黙の狭間で交わされる、静かな対話の回です。
アスと龍賢は、互いの過去や環境を透かし見ながら、
言わなくても感じ取れる“心の形”を少しずつ共有していく。
父と子、兄と弟、友と友――
人と人の間にある見えない円が、
ゆっくりと部屋の空気に描かれていく瞬間を映しています。
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『あれ?アスは帰らなかったのか?』
どれくらいの時間が経ったのか。龍賢が戻ってきて、静かにアスの隣に腰を下ろした。
『うん。家の鍵忘れたから、母さんが帰るまで家に入れない』
アスは視線を窓の外に向けたまま答える。
『そっか』
龍賢は小さく言って、ソファに深く体を沈めた。部屋にある小さな時計の針が、しんしんと冬を刻んでいるように聞こえた。
『2m40cm+80cm=3m20cm……』
アスが呟くように言う。
『他は先生、何を間違ってたの?』
龍賢はアスを見る。
『そこが気になってたのか?面白いやつだな。分数の計算とか、面積・体積の問題とか……本当しょっちゅう間違える先生だった』
『へぇ、間違えやすいものを間違えてたんだね』
アスは小さく笑う。
『あぁ』
龍賢は目を閉じ、思い出すように低く呟いた。
『若くて人気がある男の先生だった』
アスは龍賢を見つめた。
『兄ちゃんは、見て見ぬふりが出来ないんだね。その方がうまくいくときもあるのに』
龍賢はアスを見返し、薄く笑った。
『昔も今も見て見ぬふりができないから、こんななのかもな』
『わかってるなら、ふりをすればいいのに』
アスがクスクス笑う。
『出来ないから。だからアスのこともやっぱり聞かないと気がすまない』
アスは目を逸らし、ガラスの向こうの冬空に視線を投げる。
しばらく沈黙が続いた。時計の音、窓を撫でる風の音だけが、部屋の輪郭をかたどる。
やがてアスが、空気を割るように口を開いた。
『結局、全て環境で作られてるって思う』
『なにが?』
『空気を読んで言わなかったり、言いたいこと言えたり、真っ直ぐでいられたり、そうじゃなかったり』
龍賢は少し首を傾げる。
『アスは言わない環境で、俺は言える環境?』
『うん』
『そうかもな』
龍賢は目を伏せ、指先でソファの縫い目をなぞった。
『兄ちゃんのお父さんも、言葉を飲み込まないといけない環境で育った。わかってるんでしょ?』
龍賢は静かに息を吐いた。
『あぁ……ただ、見ていられない。父さんはずっと抱えてる。ずっと囚われてる。悲しい人だから』
そのとき、風が窓を揺らした。
冷たい空気が戸を叩き、部屋の光がわずかに震える。
沈黙が深く降りていく。
アスは窓の外を見つめ、細く息を吐き出した。
『そうだね。キミがずっといるから囚われたままなのかも。心配すればするほど離れられなくなるよ。………円』
龍賢は眉をひそめる。
『なんで?円って?』
アスは目を伏せ、淡く笑った。
『途中から円と話してるから』
乾いた笑いが部屋に転がった。
『キミにはすぐにバレるね。でも助けてあげたい』
透き通るような声が響く。
その声はアスのものでも、風のものでもなかった。
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この話では、環境や経験が人の行動や性格を形作るというテーマを、
アスと龍賢の会話を通じて静かに掘り下げています。
言葉にしない思いや、抱えた感情は、
時に沈黙の中でより鮮明に伝わることもある。
円――その言葉が象徴するように、
人の心や関係は閉じた形で繋がり、
見えないけれど確かに存在する輪として続いていく。
部屋に漂う冬の空気と時計の音は、
二人の心の奥にある、静かで温かな共鳴を映し出しています。




