第257話『誰かを想う事③』
「誰かを想う事③」は、
家族の温度が少しずつずれていく音が、
静かな部屋の空気に染み込んでいく回。
ケーキと笑い声の中に紛れこむ“昔話”。
軽いはずの思い出が、いつの間にか
誰かの心を刺す棘へと変わっていく。
父と子、そして見つめる第三者たち。
言葉の奥に眠る“記憶の痛み”が、
静かに居間の温度を変えていく――。
『兄ちゃんって、ぼくたちくらいの年齢のとき、どんな子どもだった?』
タケルはケーキを食べ終えると、今度は袋からパンを出して口に運びながら、何気なく訊いた。
『子どもの頃…? ん…普通の子ども』
龍賢はそう言いながらも、視線は窓の外を見つめるアスにちらりと吸い寄せられていた。
『普通ではなさそう』
露葉がクスッと笑い、首をかしげる。その笑いはやわらかいのに、どこか鋭さを含んでいた。
『なんで?』
龍賢が彼女に向き直ると、露葉とタケルは視線を合わせ、同じ答えを待ち合わせたかのように言った。
『だって、明らかに“普通”だった人が今の兄ちゃんにはならないから』
タケルの言葉には、子どもらしい無邪気さと皮肉の混じった軽さがあった。
『なんか、けなされてる気分』
龍賢はぼそりと呟きながらも、またアスの横顔を見てしまう。
『けなしてないよ。さっき自分で言ってたじゃん。お父さんによく怒られてたって』
タケルはパンの袋を開けながら、肩をすくめて笑った。
『あぁ…さっきの話か。なんでかはわからないけど、よく怒られてたな』
龍賢の声は少し遠くを見ているようだった。
タケルは開いた袋からパンをひとつ取り出し、露葉に渡した。
『ありがとう』
露葉が受け取り、ほんのりと微笑む。
『お父さんが厳しかったんじゃなくて、兄ちゃんが怒られることしてたんだよ。きっと』
タケルはパンくずを指につけ、テーブルで軽く払うようにしながら笑った。
龍賢はふと目を伏せ、またアスを見た。
『そうかもな。何かしてたのかも』
アスは依然、窓の外の闇に視線を置いたまま動かない。
タケルは「やっぱり」と言いたげに笑った。
そのとき――インターフォンが短く鳴り響く。
場の空気を断ち切るような乾いた電子音。
龍賢は立ち上がり、玄関へ向かった。
ドアを開けると、法衣姿の父親が立っていた。
冬の外気を背負いながら、どこか遠くを見るような眼差しで。
『へぇ…珍しい。なに?』
龍賢は真顔のまま問う。
父親は一瞬黙り、やがて龍賢を見据えた。
『タケルを迎えにきた。寒いからちょっと上がるぞ。龍賢、熱い茶』
言い終えるより早く、ズカズカと家に上がり込む。
龍賢は小さくため息をついた。
やがて茶を持って居間に戻ると、父親はすでにケーキを頬張っていた。
『変なやつだろ』
と、子どもに自分を評するような調子で得意げに笑っている。
タケルは堪えきれず吹き出すように笑い、
『兄ちゃん、やっぱり変わり者じゃん』
と、からかうように言った。
龍賢は父親の前に茶を置き、露葉に差し出すと、
『ありがとう』
と露葉は微笑んで受け取った。
龍賢は父親から距離を置くように座り直し、冷ややかに尋ねる。
『なんの話?』
父親は意地悪そうな笑みを浮かべ、昔話を持ち出した。
『お前が小学生の時だ。算数の授業で先生が言った答えが気になってな、放課後も“なんでなんで”って付きまとって、ついには先生の家まで行ったって話』
龍賢は黙って父親を見つめ、深く息を吐いた。
『あれは、2m40cm+80cm=2m120cm。俺は“3m20cm”って正解を言っただけ。先生が間違えた。付きまとったんじゃない。家に来いって言われたんだ』
父親はケーキを口に運び、咀嚼しながらじろりと龍賢を見た。
『だから先生の頭を瓶で殴った』
居間の空気が、ひと呼吸止まる。
龍賢は一度アスを見、次に露葉を見てから父親へ向き直り、静かに言った。
『それは、よくない。先生が100%悪くても。…でも、十歳の頃の話を今さら持ち出されても困る。』
父親は頭をかき、露葉のそばにどかりと座り直す。
『露葉さん、気をつけた方がいい。こいつは異常なくらい執念深い。付きまとわれたら最後、言うことも絶対聞かない。面倒くさいやつだぞ。』
露葉は困ったように曖昧に微笑む。
そのとき、タケルが真剣な顔をして口を開いた。
『お父さん。言い過ぎだよ』
その声に、外を見ていたアスの視線がゆっくりとタケルに移った。
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この夜、
龍賢の「子どもの頃の話」はただの笑い話で終わらなかった。
父の言葉の中に潜む棘。
それに反応するように、
タケルが初めて“父をたしなめる声”を出す。
家族とは、不器用な鏡のようなものだ。
映すたび、誰かの過去や痛みが滲み出る。
アスの静かな視線が、
そのすべてを黙って見つめていた。
――誰かを想うこと。
それは、優しさだけではなく、
痛みと向き合うことでもあるのかもしれない。




