第256話『誰かを想う事②』
「誰かを想う事②」は、
あたたかな灯りとケーキの甘い香りに包まれた、静かな冬の夜から始まる。
タケル、アス、露葉、そして龍賢。
四人のあいだに流れる空気は、やさしく見えて、どこかぎこちない。
笑い声の裏には、語られなかった“父”の影が潜んでいる。
そして、アスの胸の奥に生まれた問い――
「父さんって、どんな人だったのだろう。」
それは血の記憶と、言葉にならない孤独のはざまから、
彼の中にゆっくりと形を持ちはじめる。
クリスマスの灯のようにあたたかく、それでいて、
雪の夜のように冷たい物語。
『お姉さん、食べていいの?アスは昨日クリスマスでケーキ食べたんじゃないの?ていうかなんでキミが兄ちゃん家にぼくより先にいるの?』
タケルは色とりどりのケーキを見つめ、半ば呟くように言った。
『お姉さんから誘われた。昨日は弟が全部ケーキ食べたから、まだ食べてない』
アスは淡々と答え、目は皿の上ではなく、どこか遠くを見ている。
『たくさんあるから食べてね』
露葉は柔らかな声で言い、ナイフを入れたケーキを皿に置く。小さなフォークの音が響くたび、部屋の空気がわずかに澄んでいく。
『また小学生のたまり場だな』
龍賢が低く呟いた。
『タケルくんも私が呼んだの』
露葉は彼を見つめて微笑む。その笑みはどこか影を含んでいて、光に触れた瞬間に消えそうな儚さがあった。
『クリスマスってお父さんがうるさいから、ケーキどころじゃないんだよね。だから食べられるの嬉しい。ありがとう、お姉さん』
タケルは頬を少し赤らめながら笑った。
その笑顔に、龍賢は視線を落とし、露葉へと向き直る。
『露葉、優しいな。ありがとう』
低く囁かれる言葉に、露葉はふっと俯き、長い睫毛の影が頬に落ちた。
ケーキを口に運びながら、タケルは二人をまじまじと見つめていた。
『兄ちゃんたち、仲直りしたんだね』
『喧嘩してない。ただ、俺が悪い』
龍賢は背筋を正し、真面目な声で言う。
『違う、悪いのは私の方』
露葉も同じように姿勢を正す。
『いや、俺が』
『違う、私が』
二人の言葉が重なり、部屋にわずかな緊張が漂う。
タケルはその空気を軽く払うようにお茶をすすり、口角を上げた。
『なかいいね〜、ねぇアス』
アスは窓の外へ目をやったまま、うん…と小さく返事をする。
夜空はまだ青みを残し、街の灯りがかすかに瞬いていた。
沈黙を破るように、龍賢が言った。
『でもさ、父さんマシになった方だぞ。俺がタケルくらいの時は、学校のクリスマス会でもらったプレゼントを見てキレて捨てて、その後、学校まで乗り込んで会をやめろって抗議してた』
龍賢はケーキを切るフォークを見つめ、苦笑のように吐息をもらす。
『うわ、恥ずかしい…しかも嫌だし』
タケルは思わず引いた声を漏らす。
『でも、お父さんってすごく優しいよね。違う人の話みたい』
タケルの言葉に、龍賢はゆっくりと目を細め、静かに応えた。
『タケルにはな』
『龍賢が子どもの時は厳しかったの?』
露葉が問いかけると、龍賢は懐かしむように天井を見上げる。
『あぁ。すごく厳しかった。よく怒られてた。…でも、父さんも色々…』
そう言いながら、声は次第に弱くなり、視線が沈んだ。
露葉とタケルは目を合わせ、互いに小さく首を傾げる。
そのとき、アスは、窓辺の闇を見つめていた。
自分の父の記憶は、死の間際の断片ばかり。
『父さんって、どんな人だったのだろう。』
ふと浮かび上がる疑問。
アスはそっと両手を広げ、掌を見つめる。
この体も、知らない父からつくられている。
ふと胸をかすめる、名も知らない感情。
これこそあの人から受け渡されたものなのかもしれない。
——遺伝。
けれど、その言葉の冷たさが、どこか遠い墓場の空気を思わせて、アスの背筋をひやりと撫でた。
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アスは、他の誰よりも静かに“血”という言葉を見つめていた。
遺伝――その響きは、温かさよりも冷たさを孕んでいる。
けれど、タケルたちの笑い声や、露葉の手のぬくもりの中で、
彼はほんの少しだけ、「家族」という輪郭に触れたのかもしれない。
人は、誰かを想うとき、
その想いが自分の中の“何か”を映し出す鏡になる。
甘いケーキの残り香とともに、
アスの掌の上で“父の記憶”はまだ形にならず、
静かに夜の底へと溶けていった。




