第255話『誰かを想う事①』
「誰かを想う」とは、
必ずしも優しいことではないのかもしれない。
『誰かを想う事①』では、
露葉と龍賢の“幸福な朝”の余韻に、
突然アスが現れる。
少年の静かなまなざしは、
人の心の奥に隠された“痛み”や“記憶”をあぶり出す鏡のようであり、
彼の存在が、祝福の空気をゆっくりと別の色に染めていく。
そして――
無垢さと残酷さの境界に立つアスの一言が、
龍賢の心にひとつの“傷”を刻む。
それは、これまで語られなかった過去へと
物語を静かに導いていく。
---
玄関を開けると、アスが立っていた。
ポケットに両手を入れ、降り出しそうな雪を確かめるように空を見上げている。
「アス、どうした?」
声をかけると、ゆっくり龍賢を見た。
「おはよ、兄ちゃん。あ——こんにちはだね。お姉さんに誘われた」
アスはじっと視線を重ねてくる。その瞳に、ついさっきまで胸を支配していた衝動をすべて見透かされている気がして、龍賢はほんの一瞬、視線を逸らす。
「……あ、そう。入って」
「お邪魔します」
靴をきれいに揃え、音を立てず後に続く。居間の扉に手をかけたとき、アスがふと口を開いた。
「うまくいったみたいだね」
その言葉に手を止め、龍賢は振り返る。
「ん、すごく。うまくいったね。ありがとう」
アスはわずかに笑みを浮かべ、伏し目になる。わかりにくいけれど、アスは誰よりも優しい。
「アスくん。こんにちは……あっ、メリークリスマス」
露葉が顔を明るくし、微笑む。
「メリークリスマス。お姉さん」
アスも応じて笑みを返す。その視線はすぐ露葉の全身をすべり、最後に龍賢へと向かった。
「お邪魔だったみたいだね。帰ろっか?」
口元に悪戯っぽい笑みを浮かべる。
龍賢はふっと笑い、肩をすくめる。
「まぁな。帰ってくれるならありがたい」
露葉は慌てて「なんで?帰らないで」とアスの腕を掴む。
アスはくすくす笑いながら、彼女の隣に腰を下ろした。
「お姉さん。よかったね」
露葉は柔らかく頷き、じっとアスを見つめる。そしてふと何かに気づいたように問いかけた。
「ねぇ、アスくん……どこかで前に会ったことない?」
アスは彼女をちらりと見て、笑みを浮かべる。
「川と海の間で、この前会ったね」
露葉は吹き出しそうに笑い、「そうじゃなくて、もっと前……」と首をかしげる。
アスの目が龍賢をかすめる。龍賢は頬杖をつき、無言でやり取りを見ていた。
アスは短く息を吐いた。
「会ったことないよ。もし会ってたら言ってる」
その言葉に、また視線が絡み合う。龍賢の眼差しは真顔のまま、少年を見つめていた。
——露葉とアスは、かつて緩和ケア病棟で出会っている。彼女はそこで母を見送り、アスは……。
「自分のことは問わない」約束の代わりに、アスは露葉のことを語ってくれた。年齢を超えたその告白に、大人としてどう向き合うべきか迷うほどだった。
二年前の話なら、まだ八歳のアスがその場所にいたという事実——
彼は一体、誰を……?
露葉がアスの耳元に顔を寄せ、何かを囁いた。二人は目を合わせ、声を押し殺して笑う。アスが彼女の耳に指先を触れて言葉を落とすと、露葉は頬を緩め、恥じらうように微笑んだ。
やがて立ち上がり、ブカブカのスウェットの裾を片手で引きながら、
「ケーキ、取ってくるね」
と告げ、軽やかに部屋を出ていく。その後ろ姿に淡い光がまとわりつく。金木犀の香りがふわっと香った。
残された空気は、急に静まり返った。
アスはソファに膝を立て、座り直しながらくすっと笑う。
「兄ちゃん。見すぎ」
その声音は挑発とも親愛ともつかない。
「ぼくのこと、そんなに気になる?」
小首をかしげ、無邪気な仕草の奥に影を潜ませている。
龍賢はまばたきひとつせずに答えた。
「あぁ、そうだな。気になってる」
張り詰めた間が落ちる。時計の針の音がやけに大きく響き、外の風のざわめきまで遠のいた気がした。
アスは唇の端を上げ、囁くように笑う。
「愛の告白みたいだね」
そう言って立ち上がり、龍賢のすぐそばへと歩み寄る。頬が触れるほどの距離で耳元に唇を寄せ、囁いた。
「ぼくのお父さんが死んだ場所」
その声はあまりに平坦で、言葉だけが刃のように龍賢の胸に突き刺さる。
アスはすぐに身を離し、何事もなかったように扉を開けた。ちょうどその向こうでは、露葉がケーキの箱を抱えて立っている。アスはさっと手を伸ばし、自然にそれを受け取って並び笑った。
柔らかな甘い匂いと光が部屋へ流れ込む。だが龍賢の胸の奥には、先ほどの冷たい囁きだけが静かに残り続けていた。
---
アスは、真実を語らない。
だが、沈黙の奥で“真実の輪郭”を差し出してくる。
その言葉は、露葉の前では柔らかく、
龍賢の前では冷たく研がれる。
「ぼくのお父さんが死んだ場所」――
その一言が、時間を止め、
“祝福”という名の静寂を切り裂いた。
誰かを想うとは、
相手の幸福を願うことと同時に、
その人の痛みを知ることでもある。
雪が降り続ける中、
甘いケーキの香りと、少年の言葉の残響が、
対照的な光と影として静かに重なっていく。




