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第253話『誰かを祝う日⑥』

ひとを想うとき、

その始まりが「いつ」だったのかは、

もうわからなくなる。


出会いは偶然のようでいて、

ずっと前から心のどこかにあった“予感”のようでもある。


『誰かを祝う日⑥』は、

露葉の記憶の奥に眠る――ひとりの僧侶との「最初の光」を描く章。

悲しみの場で出会った“静かな炎”が、

やがて彼女の生の中で、

優しさという名のぬくもりへと変わっていく。


祝福とは、

誰かを所有することではなく、

「この世界にその人が生きている」という奇跡を

ただ見つめることなのかもしれない。



---

誰かが優しく包み込む。壊れものを扱うように。

白檀の香りに胸がぎゅっと締め付けられ、私はまた甘えてしまう。

私以外を想うことはないのだと感じさせる眼差し。揺るがない心。

時代に染まらない、誰にも染まらない強い心。

円を描くように、優しさと厳しさが交差する。


目を覚ますと、見慣れた寝室の天井があった。

昨日は龍賢と遅くまで話てた。

私が言葉を重ねるたび、龍賢はただ穏やかに、微笑みながら耳を傾けていた。

気づけば居間で眠ってしまってたはずなのに――

この布団の中にいるということは、眠る私を龍賢が運んでくれたのかな。

優しい気配だけが残ってる。


龍賢の姿はどこにもない。

月参りに行ったのかも。

ふらりと体を起こし、まだ夢の余韻を引きずるように廊下を歩く。

板の間の冷たさが足の裏から伝わって、少しだけ現実に引き戻される。


居間に入ると、テーブルの上にパン屋の袋。

きっと買ってきてくれたのなのかも。

やわらかい焼きたての香りが、静かすぎる朝にぽつんと漂う。

露葉はソファに腰を下ろす。

別世界のようなお寺の空間は、彼の影を濃く思い出させる。

借りたスウェットから、ふと白檀の香りが立ちのぼり、胸の鼓動が速くなる。


――龍賢と付き合うずっと前、彼に会ったことがある。

私だけが抱いている秘密の記憶。


母の遠い知り合いの葬儀に参列した日のことだった。

広い斎場は、慕われていた故人を惜しむ人々でいっぱいだった。

すすり泣く声が途切れなく響き、空気は湿った悲しみに覆われていた。


その中に、住職の祖父と共に現れたのが龍賢だった。

若い僧侶の姿は珍しく、だから余計に鮮やかに覚えている。

人々の視線を一身に受けても、彼は凛として立っていた。

泣き崩れる人々の中で、ただ一人、静かに燃える炎のように。

若さを超えた落ち着きと、芯のあるまなざし。

私はその光景に心を奪われ、息をするのも忘れて見惚れてた。


後に、彼がお寺の孫息子であることを知った。


同じ日、同じ時間、彼はお寺から出てくる。


私は何度も彼を見に行った。最初はなんでもない人から、よくすれ違う人になり、そこからよく会う人になって、いつしか顔見知りなった。立ち止まり少し話す仲になって、ある雨の日、駅まで送ってくれた。その日から歩きながら話をするようになり、出掛けようって誘われ、何度も二人で出掛けた。

彼から付き合って欲しいと言われた時、死ぬほど嬉しかった。

付き合うようになり、この部屋に連れて来られたとき、目の前に、あの日の青年がやっと私だけを見つめてくれてるって、それだけで胸が熱くなった。

胸の奥のときめきが、私の中で小さくはじけた。

ずっと彼の事が好き。


ふと目に入った本棚。

そこに、以前忘れていったゴッホの作品集が並んでいた。

取り出してソファに寝転び、無造作にページをめくる。


まばゆい黄色。荒々しい筆致。

苦しみの中でも、なお希望を描き続ける絵。

どうしようもなく脆いのに、どうしようもなく力強い。

――なんて綺麗なのかな。なんて強いんだろう。


胸の奥が熱くなり、気づけば涙が頬を伝っていた。


「露葉、どうしたの?泣いてる」

振り向くと、龍賢が立っていた。

彼は驚いたように近づき、指先で私の涙をやさしく拭った。

視線が真っ直ぐに重なり、言葉が出ない。


「ゴッホの絵が、力強くて…涙が出てきた」

そう言いながら、体を起こし、ソファに座り直す。


「そっか。良かった。どこか痛いのかと思ったから」

龍賢はほっと息をつき、隣に腰を下ろす。

気安さと大切さが入り混じる、その距離感に胸が満たされる。


「龍賢は、お参りに行ってきたの?」

「行ってきたよ。そのあと買い物もしてきた」

嬉しそうに微笑む横顔を、私は思わず見つめ返す。


「はい。メリークリスマス」

龍賢は小さな紙袋を差し出した。


受け取った瞬間、袋の中の軽さよりも、指先に触れた温もりが心に残る。

窓の外では、音もなく雪が降り始めていた。

白い静けさが、ゆっくりと世界を包んでいく。

二人だけの朝に、柔らかな祝福が降り積もっていった。



ゴッホの絵を見て涙した露葉は、

痛みの中に潜む「強さ」に触れたのだと思う。


それは、龍賢にも、そして自分自身にも重なる。

壊れやすいものほど、

本当は、誰よりも生きる力を持っている。


雪の朝、

静けさの中で二人を包んだのは、

恋でも慰めでもなく――“存在の祈り”だった。


誰かを祝う日とは、

誰かの幸せを分かち合う日ではなく、

「いま、ここにいる」という奇跡を

そっと確かめ合う日なのだ。

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