第252話『誰かを祝う日⑤』
ひとはみな、「祝う日」を心のどこかで怖れている。
誰かの幸せを前に、自分の中の“欠け”が浮かび上がるからだ。
『誰かを祝う日⑤』は、
露葉の過去に深く刻まれた痛みと、
それを包み込もうとする龍賢の静かな勇気を描く章。
「優しさ」はときに、
相手を救うためではなく、
相手と同じ場所に立つためのものなのかもしれない。
――光は、暗闇の外ではなく、
暗闇の中でしか見えないから。
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龍賢は迷うことなく露葉のスマホを取り上げ、そのまま耳に当てた。
「こんばんは。はじめまして。露葉さんと結婚を前提にお付き合いさせていただいています、釋龍賢と申します。ご挨拶が遅れてしまい、申し訳ありません。」
「龍賢、やめて」露葉は慌てて立ち上がり、スマホを奪おうとする。
だが龍賢は一歩下がり、露葉をまっすぐに見据えた。
「あぁ、龍賢くんだよね!いやいや、こちらこそ。露葉がお世話になってるね。一度そっちに伺おうかと思ってたんだが、なにせ忙しくてねぇ仕事が。露葉もなんも言わんから。」
電話の向こうの声は妙に陽気で、しかしどこかだらしなさが滲んでいた。
露葉はあきらめたようにソファに腰を下ろす。
龍賢は言葉を区切るように、はっきりと答えた。
「来ていただくのは申し訳ないので、近いうちにこちらから伺います。失礼します。」
「はぁいは〜い。待ってるよ龍賢くん。」
通話を切ると、部屋に重い沈黙が落ちた。
露葉は大きくため息をつき、視線を落とす。
龍賢はゆっくり隣に腰を下ろし、穏やかに口を開いた。
「露葉。お父さんは、いつからお金を借りにきてるの?」
露葉は俯き、吐き出すように答える。
「二年前……母が亡くなってから。だから嫌だった。あんな父親、だらしなくて恥ずかしい。でも私はあいつの娘だから、あいつが纏わりついてくる……」
龍賢はその手にそっと触れ、柔らかく言った。
「親子だからって露葉とお父さんは別だよ。……露葉が恥じることは、何もないよ。」
「でも……」言いかけて、露葉は右手で左腕を押さえる。
その仕草を受け止めるように、龍賢も同じ腕に触れた。
「……痛かった?」
露葉は首を振る。
「クセなの。痒くなってくるの。……だから変な風に思わないでほしい。」
「変な風に?思うわけないよ。出会って一年以上経つのに、気づいてあげられなくて……ごめん。」
露葉は小さく首を振り、呟く。
「なんでそんなに優しいのかな……?私なんかに……。私みたいに取り柄もなくて、生まれた時から詰んでる人間より、龍賢には、もっと似合う人がいるのかもって…いつも思うの。」
露葉の瞳から涙が流れる。
龍賢は彼女の傷に指を滑らせながら、静かに微笑んだ。
「それは露葉から見た俺だろ?露葉の目を通さない俺はどう?」
露葉は驚いたように顔を上げる。
龍賢は続けた。
「クリスマスも誕生日も特別じゃない。毎日お寺にいて、ただ同じことの繰り返し。会う人と言ったら年配の檀家さんだけ。色気も洒落っ気もない。お世辞にも顔がいいとも言えないな…。普段は作務衣姿で、話すことといえば仏教のこと。似合う人どころか、むしろ断られるだろ。」
そう言って、肩をすくめるように笑った。
「そんなこと……」露葉は真剣な顔で見つめ返す。
龍賢は軽く息を吐き、目を細めた。
「いうほど俺、真っ直ぐでもない。ただ精神的に図太いだけ。優しくもないし、善人でもない。簡単に傷付きもしない。本当に真っ直ぐなのは露葉だよ。優しくて、繊細で、脆くて、悲しくて……綺麗。俺にもったいない。」
「私、違う……」露葉は震える声で否定する。
龍賢は彼女の左腕を撫で、言葉を落とした。
「……傷さえ、綺麗。露葉は自分が思うよりずっと魅力的だよ。気づかないからこそ、美しいのかもしれない。」
微笑む龍賢。その視線を受け、露葉も小さく微笑みを返した。
重たい夜の空気の中で、その一瞬だけ、確かな光が灯った。
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露葉が「恥ずかしい」と言ったのは、
父でも、傷でも、過去でもなく、
“それでも生きてしまっている自分”だった。
龍賢はそれを赦そうとしたのではなく、
ただ「見た」。
そして「そこにいる」ことを選んだ。
人を祝うということは、
欠けたままでも、壊れたままでも、
“あなたがいてくれてよかった”と伝えること。
夜の奥で、二人の間に灯った小さな光は、
その言葉にならない祈りのようだった。




