第249話『誰かを祝う日②』
雪の夜の静けさの中で、
人と人とのあいだに流れる“あたたかさ”は、
言葉よりも静かに、しかし確かに灯る。
『誰かを祝う日②』は、
龍賢と露葉、そして二人の間に生まれた小さな「光」を描く物語。
それは恋とも信仰とも呼べない、
ただ“生きて誰かを思う”ということの純粋なかたち。
冬の夜、灯の前で交わされる沈黙の中に、
人が人である理由が、かすかに滲んでいる。
龍賢が風呂から上がると、部屋には温かな香りが漂っていた。
テーブルには、露葉が作った料理が並んでいる。
白いコートを脱いだ彼女は、薄手のグレーのワンピースに身を包み、首元には龍賢が以前贈った琥珀のネックレスが小さく光を宿していた。
「露葉って料理も上手だよな。」
龍賢が箸を動かしながら呟く。
露葉はふっと笑って答えた。
「龍賢よりは上手かも。」
「俺と比べたら、ほとんどの人が料理上手だろ。」
龍賢が肩をすくめると、露葉はくすくすと笑った。
「龍賢は、今日ずっとお参りだったの?」
「そう。多くてね、朝からずっと。…街が賑やかだと思ったら、クリスマスイブだったんだな。」
露葉はまた小さく笑う。
「やっぱり龍賢は、クリスマスパーティーとかしたことない?」
「はは。あるように見えるか?」
「ん…ないか…」
そこで会話はいったん途切れた。
二人は箸を動かしながら、しばらく黙々と食事を続ける。
雪の降る外の気配と、食器の小さな音だけが部屋に満ちていた。
食べ終えると、露葉はそっと箸を置き、立ち上がった。
「ケーキ、冷蔵庫に入れておいたから、持ってくるね。」
龍賢はソファに身を預け、目を閉じる。
静かな余韻の中で、彼女がまとっていた空気の温もりがまだそこに残っていた。
露葉を思うたび、ふいに金木犀の香りがよみがえり、胸が締め付けられる。
――恋なんてしたことがない。
誰かを好きになったこともない。
何かに執着したことも、誰かを強く思ったこともなかった。
全ては通り過ぎていくもの。
同じで、何もない。
「無」だと……。
そのとき、不意にアスの声がよみがえる。
『マルテの手記。お姉さんみたいな本だね…』
耳の奥でその声が響き、重なるようにリルケの言葉が立ちのぼる。
> 愛されることは、燃えつづけることでしかない。
愛することは、暗い夜にともされたランプの美しい光。
愛されることは消えることだけど、
愛することは永い持続――。
金木犀の香りがする。紅茶の湯気と混ざり合い、柔らかく広がる。
目を開けると、露葉がケーキを皿に並べ、紅茶を淹れていた。
龍賢の視線に気付くと、彼女はふっと微笑み、すぐに目を逸らす。
蝋燭に火が灯される。
揺れる炎に照らされる露葉の横顔。
その瞳は、遠い場所を見つめているようだった。
――愛することは、暗い夜にともされたランプの美しい光。
龍賢は、言葉にならないままその姿を見つめ続けた。
炎は小さく揺れながら、二人の間に確かな温度を残していた。
――愛することは永い持続。
静かな夜に、蝋燭の灯りだけがやさしく呼吸していた。
「祝う」とは、誰かの存在をそっと肯定すること。
そこに宗教や儀式は必要なく、
ただその人が“ここにいる”という事実を
静かに受け入れる時間のことかもしれない。
龍賢にとって露葉は、
“無”の中にともったひとつの灯。
そしてその灯は、
愛という言葉ではなく「持続」として、
彼の中でゆっくりと燃え続けていく。
雪の夜に見えた小さな炎は、
誰かを祝うこと――つまり、
生を祝うことそのものだったのだ。




